また極論をしてみる。
何故映画が面白いのか。
それはデスゲームだからだ。
ちょっと前に流行った、
「デスゲームもの」
(ソウやカイジのような、
現実からかけ離れた、閉鎖空間での特殊ルールのもとに、
死を賭けたゲームをさせられる)
を含む。
もっと広義な意味でのデスゲームが映画である。
すなわち、何らかの行動をして、
目的を達成しなければならないときに、
その話特有のルールがあり、
(たとえばバックトゥザフューチャーでは、
世界線を父母のラブストーリー成立にしなければ、
自分が死んでしまうという特殊ルール)
それを成功させなければ死である、
という世界にいる、という意味である。
デスゲームとはブルース・リーの「死亡遊戯」の英題である。
あの五重塔でも、
なぜか、「一階一階に四天王の一人が待ち受けていて、
それを倒さないと上の階に行けない、しかも殺しあい」
という特殊ルールだ。
合理的に考えれば四人で挑戦者を袋叩きにすればいいものを、
三階あたりの敵が「ここまで上ってきたやつは久しぶりだな」なんて言うわけだ。
それは、ある特殊ルールの元にいるわけである。
車田正美をはじめ、
ほぼ少年漫画のバトルの、基本ルールがここにある。
文字通り、ゲームにも当たり前のように出てくる。
全員で挑戦者を袋叩きにすればいいのに、
という疑問はないことにしているわけだ。
ここまであからさまな例でなくとも、
映画とはある種のデスゲームなのだ、
ということが成り立つ、という話である。
目的は何か。
その為のルートは何か。
その世界は、現実に基づいたどういうルールで動いているのか。
(バックトゥザフューチャーなら、
2.5ジゴワットがないと未来に戻れない、などのルールも含まれる)
それに失敗したら死ぬ危険。
特にハリウッド映画は、しょっちゅう死ぬ危険を描いている。
仲間の死も多いよね。
主人公が死ぬわけにいかないから、
仲間の死で主人公の危険を想像させる仕組みになっているわけだ。
崖からぶら下がったり、
車に追いかけられたり、
不気味な連中に拘束されたりしなくても、
別に構わない。
目的を達成する過程で、
家族や会社に迷惑をかけて、
「そんなやつだとは思わなかった」と目立ってしまうことも、
社会的な死の危険である。
ハブられること覚悟で、目的達成の行動へ進むだけの、
動機の強さがセットであることを確認するとよい。
目的、動機、行動、死の危険、そして世界のルール。
これらがセットである。
そして主人公だけでなく、
敵やライバルなどに、同様のセットがあるわけだ。
同じルールで競うのか違うルールで競うのかは、話によるだろうね。
そのルールが「限定場所に集められたやつらが、
一定の特殊ルール下で死を賭けたゲームをすること」ならば、
狭義のデスゲームものになるだけの話である。
(ソリッドシチュエーションスリラーなんて命名もあったね。
死の危険を残酷なスリラーで描くからだ)
ラブストーリーだってデスゲームだ。
告白の失敗は、自分の死みたいなものだからね。
他人がデスゲームに挑むのは面白い。
私たち観客に死の危険がないからだ。
闘技場に集うローマ人と同じである。
サスケや五重塔や闘技場やトーナメントなどのゲーム的なものでも、
もう少し現実に基づいたもの
(たとえば米ソ冷戦下でのスパイ合戦、
裁判、株の仕手戦、会社の経営、店を開く、
仕事を得る、殺人事件を解決、
野武士に襲われている農民の村、などなど)
でも、どちらでもいい。
おそらく、後者のタイプの新しいパターンこそが、
実写映画に求められているものである。
あなたは、広義の、新たなデスゲームを発明することだ。
2016年11月30日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック