2016年11月30日

映画ってのは、デスゲームだ

また極論をしてみる。

何故映画が面白いのか。
それはデスゲームだからだ。


ちょっと前に流行った、
「デスゲームもの」
(ソウやカイジのような、
現実からかけ離れた、閉鎖空間での特殊ルールのもとに、
死を賭けたゲームをさせられる)
を含む。
もっと広義な意味でのデスゲームが映画である。

すなわち、何らかの行動をして、
目的を達成しなければならないときに、
その話特有のルールがあり、
(たとえばバックトゥザフューチャーでは、
世界線を父母のラブストーリー成立にしなければ、
自分が死んでしまうという特殊ルール)
それを成功させなければ死である、
という世界にいる、という意味である。


デスゲームとはブルース・リーの「死亡遊戯」の英題である。
あの五重塔でも、
なぜか、「一階一階に四天王の一人が待ち受けていて、
それを倒さないと上の階に行けない、しかも殺しあい」
という特殊ルールだ。
合理的に考えれば四人で挑戦者を袋叩きにすればいいものを、
三階あたりの敵が「ここまで上ってきたやつは久しぶりだな」なんて言うわけだ。
それは、ある特殊ルールの元にいるわけである。

車田正美をはじめ、
ほぼ少年漫画のバトルの、基本ルールがここにある。
文字通り、ゲームにも当たり前のように出てくる。
全員で挑戦者を袋叩きにすればいいのに、
という疑問はないことにしているわけだ。


ここまであからさまな例でなくとも、
映画とはある種のデスゲームなのだ、
ということが成り立つ、という話である。

目的は何か。
その為のルートは何か。
その世界は、現実に基づいたどういうルールで動いているのか。
(バックトゥザフューチャーなら、
2.5ジゴワットがないと未来に戻れない、などのルールも含まれる)
それに失敗したら死ぬ危険。

特にハリウッド映画は、しょっちゅう死ぬ危険を描いている。
仲間の死も多いよね。
主人公が死ぬわけにいかないから、
仲間の死で主人公の危険を想像させる仕組みになっているわけだ。

崖からぶら下がったり、
車に追いかけられたり、
不気味な連中に拘束されたりしなくても、
別に構わない。

目的を達成する過程で、
家族や会社に迷惑をかけて、
「そんなやつだとは思わなかった」と目立ってしまうことも、
社会的な死の危険である。

ハブられること覚悟で、目的達成の行動へ進むだけの、
動機の強さがセットであることを確認するとよい。


目的、動機、行動、死の危険、そして世界のルール。

これらがセットである。
そして主人公だけでなく、
敵やライバルなどに、同様のセットがあるわけだ。
同じルールで競うのか違うルールで競うのかは、話によるだろうね。

そのルールが「限定場所に集められたやつらが、
一定の特殊ルール下で死を賭けたゲームをすること」ならば、
狭義のデスゲームものになるだけの話である。
(ソリッドシチュエーションスリラーなんて命名もあったね。
死の危険を残酷なスリラーで描くからだ)

ラブストーリーだってデスゲームだ。
告白の失敗は、自分の死みたいなものだからね。


他人がデスゲームに挑むのは面白い。
私たち観客に死の危険がないからだ。
闘技場に集うローマ人と同じである。

サスケや五重塔や闘技場やトーナメントなどのゲーム的なものでも、
もう少し現実に基づいたもの
(たとえば米ソ冷戦下でのスパイ合戦、
裁判、株の仕手戦、会社の経営、店を開く、
仕事を得る、殺人事件を解決、
野武士に襲われている農民の村、などなど)
でも、どちらでもいい。

おそらく、後者のタイプの新しいパターンこそが、
実写映画に求められているものである。

あなたは、広義の、新たなデスゲームを発明することだ。
posted by おおおかとしひこ at 11:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック