ラストシーンを決める派と、
決めない派がいる。
僕は決める派であるべきと考えている。
向かう先、エンドがそもそも魅力的でないと、
途中を面白くできないからである。
まずは魅力的なエンドを作ろう。
ハッピーエンドでもバッドエンドでもいい。
最後まで見てよかった、と思えて、
そのラストをずっと覚えている印象的な何かだ。
そもそもそのラストを描くために、すべてがある。
それがシナリオの構造設計だといえる。
勿論、結論は最後に来るのだから、
「その話の結論」である。
気の利いたセリフでもいいし、
印象的な絵でもいい。
何かを暗示するものになるのがベストだ。
言葉でまんま言うのは野暮なものだ。
論文じゃないんだからね。
名作のラストシーンだけを並べて比較するのも勉強になるよ。
それは、どんなことを言っているのかを並べて比較してもよい。
大抵、難しいことは言っていない。
私たちの既に知っている価値を再確認していることが多い。
逆に私たちは、私たちの既に知っている価値を再確認するために、
最終的には映画を観ているのかも知れない。
頭では知ってはいるが、本当にそれは価値のあることなのだなあ、
と具体で分かる、体で感じるために観るのかもだ。
あなたの書くラストシーンを、
暫定書いておこう。
実際には変わることが多いが、
本質は変わることはないだろう。
(たとえばてんぐ探偵12話「結婚の提案」では、
ラストのセリフのやり取りは書く前から決まっていたが、
シーンの具体的な地の文までは決まっていなかった)
ラストさえ決まれば、
いかにそこへ面白く着地できるか、逆算できるからである。
まっすぐ行ったら読めてしまうから、
こっちへストーリーを誘導しようなどという計算も成り立つだろう。
さて、このラストはいつ考えるのか。
プロット段階である。
頭に問題を書き、
次にラストを考えるときもあるし、
解決を考えてからラストを考えるときもあるし、
頭から問題、展開、解決と書いて、
ラストにうまいまとめを思いつくときもある。
プロットの完成とは全てのパートの骨格の完成だ。
あとはそのラストへ向けて、ディテールを面白くしていけばいいのだ。
ラストが決まっていないと、
全てのことがぶれると考える。
それ必要なかったよね、というパートや伏線も多数余るし、
そのラストにするならこういう伏線があれば良かったのに、
という不足も発生する。
長編連載なら、作者も考えながらやってるのをみんな知ってるから、
その無駄や不足についてはあまり問われないけれど、
映画は一気見することが前提の、
(長編連載から見れば)短編である。
つまり、
そのラストならこれは不要だし、
そのラストならこれは不足である、
ということがあるべきではない。
勿論、先にざーっと書いてからリライトで練る、
というやり方もあるけど、
執筆されたもので練るよりは、プロットで練ったほうが、
書き終えたプロットで練るよりは、メモ段階で練ったほうが、
自在なことが出来て大きな手間を省けるというものだ。
執筆してしまうと、それから直すのはとても大変だ。
経験上、もう一回一から書いた方がいいものになるくらいだ。
だから、練るならば最初期の段階でやるべきなのだ。
そのエンドは魅力的か?
どういう魅力を放つのだろうか?
エンド単独の魅力なぞない。
こういう話だったからこそのエンド、という魅力のはずである。
つまりエンドとは、点でなく線の終端という魅力のはずである。
(めでたしめでたし、という点だから魅力的なのではなく、
こういう激動の悲劇だったからこそ、ハッピーエンドが輝く魅力になる、
などとなるはずである)
先に決めて、そこへ向かおう。
シナリオとは計画である。
計画性のない計画は、破綻と相場が決まっている。
(若いうちは無計画の成功が面白い時もある。
しかしそれで成功するのはラッキーマンだけだ)
2016年12月02日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック