人間には、表と裏がある。
子供にすらある。
これを描かなくて、なんの文学か。
裏と表をうまく描こう。
簡単なのは、相手によって、話題によって、
人格や知っていることを変えることだ。
それはひとつの人格の中で首尾一貫している。
「いくつもの顔を使い分けている」という意識で、である。
従ってこの意識が崩れるときがドラマのチャンスになる。
浮気と本妻で使い分けていたものがバレたときは、
その典型だ。
嘘や矛盾を突かれてしどろもどろになったとき、
人間は考えもしなかった言い訳をしたりして、
それが滑稽であることが多い。
原発の菌いじめを、
「ヒカキンのキンのつもりだった」という言い訳に、
腹を抱えて笑った。
現実は創作の斜め上に来るものだ。
(逆に創作だったら下手な台詞だぜ)
失言も、ドラマのチャンスだ。
使い分けていたものがうっかり混ざるときが、
大抵失言である。
それを繕うのか、傷を拡大していくのかは、話次第だが。
裏表がある人と裏表がある人同士の会話は、
非常に興味深い。
それらをコントロールしきれれば、
デスノートみたいな頭脳戦も書けるだろうね。
簡単なところでは、女子の友情。
表面上はなかいいふりをして、
いなくなったら悪口合戦。
男の友情ではあまり考えられないが、
表面上の付き合いでいえば、営業活動がそれに当たるのかもね。
本当はこう思っているのだが、
表面上こうしている。
そのギャップが人を苦しめる。
その圧力は、行動の燃料になるわけだ。
つまり人は、裏表なく生きたいのだね。
だから、裏表がない状態は、
ドラマにならない。
裏表がある状態が、ドラマのスタートだ。
誤解や秘密や嘘やごり押しが、何故ドラマと相性がいいかの答えがこれだ。
2016年12月05日
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