脚本を書いているとき、
最も行き詰まり、最も自問自答する問いがこれだ。
答えが出なければ、挫折が待っている。
間違って答えると、詰まらない方向、間違ったほうへ話が行ってしまう。
正しい答えはなにか?
プロットにヒントがあるかと、
過去に自分の書いたものを紐解くと、
そのちょっと先は書いてあっても、
今とその間が書いてないことが多い。
わたしはどうなってそこへたどり着くかが知りたいのだ、
その空白を埋めなければならないのだ。
さて、答えを導き出すのには、
逆に「面白く書けている状態はどんなか」を思い浮かべるとよい。
登場人物が生き生きとして、
話に淀みがなく、
テンションを保ったまま進んでいる状態のことだ。
それが、
楽しい会話が突然途切れたときのあの間のように、
次何を書けばいいか分からなくなってしまったのである。
会話を続ける、ということならば、
話せそうな新しい話題を探せばいい。
つまりは、新しい焦点を見つけるといいのだ。
現在の焦点が決着がつきかかるか、
現在の焦点がまるで実現しないことであることが分かったとき、
次の焦点を見失い、
次に何を書けばいいのか分からなくなるのである。
焦点とはなにか?
登場人物の目的がはっきりしていて、
ストーリーがそれを中心に動いていることである。
登場人物も観客も、
それが成功(または実現)するかどうかを、
興味をもって、夢中になって追い求めている瞬間である。
それが途切れるということは、
焦点が次にない、ということなのだ。
焦点が途切れそうになったら、
次の焦点を用意すればいいのである。
すなわち、ターニングポイントである。
ターニングポイントとは、
焦点が次の焦点へ劇的に変わる、
シーンや台詞や出来事や点や一行のことであった。
つまりあなたは、
焦点が尽きそうになったら、
次の焦点を用意し、ターニングポイントを作ればいいのだ。
それは自然に乗り変わる静かなターニングポイントでもよいし、
劇的にバコーンと変わる派手なターニングポイントでもよい。
派手か地味かは本質的ではなく、
焦点がうまく切り替わることが本質的だ。
登場人物は目的を持って行動している。
それが尽きたら、
次の目的を持つ。
そういう風にすればよいだけだ。
大目的(センタークエスチョン)は変わらないだろう。
中目的(ブロック単位での目的)は変わるかも知れない。
少なくとも小目的(目先のこと)を変えるとよい。
手紙を出すために郵便局に行った話なら、
そこで郵便局が工事中で、
南に300メートルのポストに行かなければならないようにすればいい。
「手紙を出す」が中目的、
「郵便局に行く」「南に300メートルのポストに行く」が小目的だ。
勿論、観客は中目的や大目的に感情移入し、
それが成功するかどうか興味をもって見守っていることが前提だ。
あとは、南に300メートル行く間に、
動物園から逃げた虎が出たり、
初恋の子が旦那と現れたり、
突然うんこしたくなったり、
などの障害を与えてやればよいのである。
ところで、
何を書けばいいか分からなくなってきたときは、
前提となる感情移入が途切れていることがある。
もう何をやってもその人のことはどうでもいいや、
と思えるときだ。
その時は、登場人物たちに、
今何をどう思っているか、言わせてやるとよい。
このために、映画は一人言を言わずに、
バディで会話させるのだ。
だから行動の単位は二人以上になる。
「まじか。工事中だぜ」
「300メートル先は面倒だ。今日はやめようぜ」
「バカいえ。今日中に出さないと首なんだ」
「首でいいじゃん。下らない会社なんだろ」
「それもそうか。いやいやいや」
なんて会話でもさせれば、
「なぜそれをどうしてもやらなければならないか」を、
登場人物たちが確認しはじめるはずだ。
これによって動機や目的が再確認され、
どうしてもそれをやらなければならないようになるだろう。
行動というのは、
やらなくていいのなら、やらないものである。
それをどうしてもやらなければならない事情や動機が、
感情移入の素になっていることを思いだそう。
焦点が途切れそうになっているときは、
私たちの感情移入も途切れかかっている。
退屈とはそういうことかも知れない。
2016年12月08日
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