2016年12月11日

名前は呪い

トランジットで暇なので、脚本論を更新してみる。@マイアミ

キャラクターの名前、組織の名前、町の名前、
作中の固有名詞は一種の呪いである。
そうであって欲しいように、名前をつける筈だ。


たとえば冴子という女のキャラでデブの愚図はいないだろう。
「デブで愚図なのに冴子」というキャラもいるだろうけど、
それでもそれは冴子というキャラ名が、
鋭くて冷静で敏腕な女をイメージさせることを利用してるわけだ。

マイアミという地名で北の地方にはならないだろう。
ブラジルという店にコーヒーがないわけないだろう。

ということで、
命名行為というのは、それがそうであることを、
一種説明する行為なのである。

これが呪いになるわけである。


ようやく本題。
映画においては、その呪いは、
小説や漫画に比べて、極めて効果が小さい。
映画を二時間見る間に、役名の記憶をする必要などほとんどなく、
「○○の立場の人」のような覚え方をするからである。
主人公、警官、父、浮気相手、などなどだ。
それは見た目で分らなければならない場合もあるだろう。
元警官なんてのも、ある程度服装で分ったりするものだ、

さて、あなたがもし名前に、
そうであって欲しいという願いを込めたとしても、
映画においては無視されるということを知っておこう。
逆に、あなたが冴子と名付けたキャラクターを創造し、
性格がクールで敏腕であるという設定を付与したとしても、
その人物がクールなセリフをしゃべり、
その人物が敏腕な行動をしない限りにおいては、
その人が冴子っぽいかどうかなんて分らないのだ。
たとえトン子という名前だとしても、言動が冴子っぽければよいのである。
映画において、それほど命名というのは関係のないことである。
(もちろん、冴子と命名しといた方が混乱がなくて済むけどね)

さて核心にやって来た。

性格設定を冴子のようにしたとしても、
なおまだそれを記憶することは観客には困難である。
それはその人を、たとえば「主人公の補佐の女刑事」
としてしか記憶しないからである。

その人を一番その人らしくするのは、
実は設定でもセリフでも言動でもなく、
「エピソード」によってだ。
冴子がどんな言動や振る舞いをしようが、
観客の記憶にはほとんど残らない。
それよりも、「土壇場で金の為に裏切る女」
なんてエピソードを作ったほうが、
冴子の冴子らしさを一発で記憶するのである。
(どの冴子の話かはとりあえずおいておく)

のび太が「ぐうたらで間抜け」だと説明されるよりも、
「宿題をするのが面倒なのでドラえもんに道具を出してもらう」
という具体的なエピソードで記憶されるべきなのである。
それは「ぐうたらで間抜け」ということと100%イコールではないが、
性格設定よりもより強力な、その人物の説明を果たすことになるのである。

説明よりエピソード。これが一番大事だ。

最近書いたディテールから例を。

「二人の性格は真逆だ」という設定を示すために、
「一人は麺こそラーメンと主張し、もう一人はスープこそ至高、と喧嘩する」
なんてシーンを書いた。
「麺なんて単なる小麦粉。スープこそ様々な材料が混然一体となっている。
それは人生と同じなのだ」と仕事観の違いをそこから浮き出す
マクガフィン(別にラーメンでなくても良かった)として使ったのだが、
それが最終的に伏線になるように、話の序盤に置いておいた。

つまり、ラストの二人の和解を、
「ラーメンは麺とスープの両方がなければ意味がない」
ということで表現させるのだ。

エピソードで何かを示したら、
それをあとで利用できる。
結果的に、そのエピソードは伏線になるわけだ。


名前で呪いをかけている場合ではない。
点ではなく線で書くということは、こういうことだ。
ネーミングを冴子か凍子かで悩む暇があったら、
冴子っぽい印象的なエピソードを考える方が先だ。

映画ではネーミングに意味がない。
ネーミングに時間をかけるのは、あなた一人が名前の呪いにかかっていて、
他の人を巻きこめていない。
posted by おおおかとしひこ at 09:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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