2016年12月17日

【日記】床と地面の話

カポエイラの記事で書き忘れたこと。
地面は汚い、という話。


ブラジルはポルトガル領だったので、基本ヨーロッパの生活スタイルだ。
家は土足である。

で、家の床は上等が石、中がタイル張り、下がコンクリや木である。
これは何を基準としているかというと、
「水で洗い流せるかどうか」ということだ。


我々日本人の床に対する考え方と欧米人のそれは、全然違う。
やつらは床になんでも捨てる。食べかすやペットボトルやナプキンや、
極端には痰や唾も。
家でも店でもだ。

たとえばレストランで出されたパンの、パンくずはどこへ捨てるか。
日本人なら皿の上だろう。テーブルにこぼれたら、
それを皿の上にすら戻すだろうね。
ところがやつらは違う。
パンくずは手で払って床に捨てるのである。
外の地面と同じものが床であると考えているらしい。
だから床は、まとめて洗い流せるかどうかで考えるのだ。
そんなのめんどくさいと日本人なら思う。
だがやつらは自分で掃除するときのことなど考えない。
「掃除はメイドの仕事」だからである。

この、労働は奴隷がやる、という発想が外人だと思う。
僕ら日本人は「自分で掃除する」という考え方が身についているから、
わざわざ床を汚すのは汚いと考える。

ちなみに、ブラジルの小学校(おそらく欧米も)では、
「掃除の時間」というものはないそうだ。
「自分の使う場所を自分で掃除する」という考え方ではなく、
「汚すとか汚さないに関係なく、掃除は掃除の人がやる」
と考えるのである。

だからこんなやつらに三秒ルールは通用しない。
そんな汚い床に落ちたら、一秒だろうがアウトである。

第一彼らには「勿体ない」という考え方などない。
食べたいだけ食べて、余ったら全部捨てる。
マクドナルドの廃棄をはじめて日本人が見た時、
勿体ないとだれもが思ったが、
彼らにとっては日常の食事もそうなのだ。
だから家庭料理でも、「残す」ということは悪でもなんでもない。
よく映画の母親がガーッと捨てるように、
ゴミ箱に全部捨てればOKなのである。

その床やゴミに対する感覚は、家まで続いている。
だからやつらは家でも土足だ。
床は地面と同じ。
洗い流せる(モップ掛け出来る)かどうかが基準だ。
こういう考え方だから、ベッドに足をかけやがるのである。
よくホテルのベッドに、足側にある長方形の謎の布の正体をご存じだろうか。
あれは靴のまま寝転がっても、布団が汚れないためのカバーなのだそうだ。
ベッドのCMをやったとき、家具屋さんに教えてもらってびっくりしたものだ。

つまり、やつらは土足でベッドに寝転がるのが前提の文化なのである。
我々はホテルに入っていったん靴を脱いだら、
本来はスリッパを使うべきなのだが、
つい裸足のままでそこらをうろうろしがちだ。
外人にとってみれば、それはゴミで溢れた地面を歩くに等しいのである。

事実、リオデジャネイロの地面はとても汚れていた。
そもそも側溝の排水溝が機能しない。
公共工事がまず出来ていない。
そこらじゅうに水たまりがあり、その際は黒い埃のようなものがこびりついている。
そのうちマラリア蚊が湧くだろうな、と思わせる感じだ。
果物のカスやら王冠の蓋やらは当たり前に転がる。
オリンピックからこちら、ポイ捨てが禁止になったそうだ。
逆に言えば、ポイ捨ては常識の地面だったのである。

リオの歩道は全てモザイクタイルの地面である。
これはポルトガル様式らしい。
モザイクタイルといえば素敵に聞こえるが、
実際これは石畳に必要な石をそろえられなかっただけに見える。
石畳といえば、不潔な床の代表である。
そして石畳も、モザイクタイルも、石と石の隙間に、水と埃がたまってゆく。
排水溝は機能せず、スコールの時は水があふれると通訳は言っていた。

それが問題と思わないことイコール、
「地面や床は、そういうものだ」という文化なのである。


ようやく本題だ。

だから、奴隷は裸足で床を歩かせるのだ。

奴隷に靴を与えない。奴隷に汚い地面や床を踏ませ続ける。
それがポルトガル人がアンゴラ人にした扱いである。

彼らは、汚い地面に手をつき、汚い地面を踏んでいた足で、
ポルトガル人の顔を蹴るのだ。
彼らは、汚い地面にわざと転がり、その勢いで蹴りを放つのである。

それがカポエイラだ。


練習の見学をさせてもらったときに一番驚いたのは、
ふつうのカフェで練習していることだった。
カフェのテーブルやいすをどけて、スペースをつくってそこでやる。
床は木だった。
端のソファとか本棚はそのままで、
そこにビリンバウ(楽器)などをごろんと置く。

日本人の考えなら、そこで雑巾がけからはじまり、
練習後は雑巾がけをしてしめるところだろう。
だがカポエリスタたちは、
その汚れた床に何もせずに座り、手をつき、転がり、
掌や脚裏やTシャツを真っ黒にしたまま練習していた。
それは黒人たちが、
地面で練習していた時とまるで同じなのだと理解したとき、
日本の道場が雑巾がけからはじまることと、
真逆の誇りを持っているのだとわかった。

足の裏で蹴りが入れば、真っ黒な足跡がつくだろう。
それがカポエリスタの「反逆」の象徴なのだ。


ところで、ジョーゴ(組手)は、アンゴラ派はゆっくりやる。
太極拳のような組手である。
型でなく自由組手だ。
カポエイラは回転しながらの蹴りが中心だから、
寸止めをするわけにいかない。
だから蹴りは振りぬく。
ブロックはせず(両手が塞がっている前提)、
カポエイラのディフェンスはすべて避けで構成される。
だからジョーゴにおいては、
「相手が避けられるルートを必ずつくる」のがマナーらしい。
(それゆえチェスゲームのような展開にもなる)

真っ黒な足跡をつけるのは、同胞ではなくポルトガル人だ、
カポエイラのジョーゴは、そういう主張もしているわけである。



ヨーロッパ人の床や地面に対する考え方から、
カポエイラを考察したものは見たことがない。
ということで書いてみた。


撮影最終日はリオデジャネイロ観光が出来た。
セントロ地域のポルトガル人の遺産を見れた。
ブラジル銀行文化センター(元ブラジル銀行を現代美術館にしたもの。
建物の造形、内装が素晴らしい。展示作品は現代限定なので微妙)や、
カンデラリア教会(ポルトガル人の上陸地点に建てられた教会。
中が素晴らしい。クラリスの結婚式やった教会みたいな)や、
その裏の下町(映画のロケでよく使うらしい。アングルの切りやすい場所だった)、
幻想図書館(このワードでググればすごい画像が見れるよ!)。

たしかにすごい。
ヨーロッパ人の文化はすごい。
しかしそれは、奴隷の労働が支えて出来ている。
そういうことを肌で理解できたブラジル滞在であった。

ああ、いつかカポエイラの映画をつくりたいなあ。
オンリーザストロングみたいなB級映画じゃなくて、
大航海時代と現代を直結するような視点のものを。
posted by おおおかとしひこ at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック