ハイコンテクスト表現は、省略技法である。
みんな知ってる部分は表現に入らない。
それは、ややもすると甘えになるわけだ。
ハイコンテクストは説明が不要である。
お互いの了解事項が多いから、
説明を省略して本題に入れる。
だけどそれを知らない人からすれば、
何を言ってるか分からない。
合コンの場で、急に同郷出身者であることが分かり、
地元トークに花が咲く場面を思いだそう。
本来ローコンテクストではじめましての場に、
いきなりハイコンテクストがぶちこまれるわけだ。
当人二人が楽しそうなのは分かるので、
ある程度は泳がせる程度のマナーは皆持っているが、
ハイコンテクストの会話は、
ローコンテクストにはイミフであることは、
ローコンテクスト側にいれば分かることだろう。
で、盛り上がったふたりが、
ポカンとしてるみんなにハイコンテクストを説明しようとして、
いつもうまくいかない感じを想像するとよい。
ハイコンテクストをローコンテクスト側に説明するのは、
とても困難である。
説明がとてもうまくないといけない。
他の例をあげると、「自分の気持ち」かもだ。
自分の気持ちを他人に説明するのは困難だ。
自分の気持ちは、それまでの人生すべてのハイコンテクストから導かれる。
それを知ってるのは自分一人であり、
そんなの他のやつから見たら知らんがな、
ということにしかならないわけだ。
その時の、「察してくれよ」は、
ハイコンテクストを前提としない人には、
甘えだと感じるわけである。
日本の社会においては、
これを察してあげることを強制される。
空気を読むというのはこの一部であり、
事前に調べたおしておくのもこの一部であり、
恋人同士になるというのもこの一部だろう。
転校生の経験があれば、
そのハイコンテクストへの馴染みの困難の経験を持つだろう。
しかし、それは、そのローカル社会を知らない人にとっては、
知らんがな、なのである。
ハイコンテクストは、だから排他的だ。
田舎社会もハイコンテクストだ。
あなたの表現が、
どれだけ一般性があるかは、
ハイコンテクストかどうかに関係している。
僕の書く文章も、ある程度のハイコンテクストを持っているから、
読者を選ぶかも知れない。
一応最初から全部読めばローコンテクストになっているのだが、
最初からここまで追い付くだけの労力を払う人はいないだろうし。
さて。
作品というのは、
文脈から独立して成立するべきだ。
ハイコンテクストであるべきではない。
たとえばハリウッド映画によくある、
「これはキリスト教の○○のエピソードを下敷きにしているのだが、
日本人には馴染みが薄いかも知れない」とか、
「これは世界情勢を巧みに反映していて、
○○は△△の比喩なのである」なんてのは、
ハイコンテクストなわけだ。
そこを説明しないと分かんないよね、
というのはハイコンテクストなわけだ。
ハイコンテクストのものは、
その範囲が及ぶものには効果的だが、
それが及ばないものには弱い。
ローコンテクストなものは、
だから国境を超えるし、時代を超えるわけである。
(映画の解説というのは、だから、
ハイコンテクストをローコンテクスト側にうまく説明することだろう。
たとえば「イントレランス」がなぜすごいかの理由に、
「テーマパーク並の巨大セットを作った初めての映画。
ただしストーリーは出来が悪く、当時の人々もちんぷんかんぷんだった」
というのがないと、その歴史的価値は分からない)
あなたの提供する娯楽は、
ハイコンテクストなものか?
ローコンテクストなものか?
ハイコンテクストならば、
それは甘えかも知れないと疑おう。
CMの世界では、それはおばちゃんにも分かるか?
と言われることがよくある。
ローコンテクストを意識せよ、ということである。
テレビは中二程度のローコンテクストを基準としている、
とよく言われる。
それは、説明の基準のはずなのだが、
いつの間にか知的レベルの基準になり、
テレビはバカの見るものになってしまったわけだ。
ローコンテクストはバカなのではない。
知らないだけで、説明されれば分かる知的レベルはある。
外人の日本語がたどたどしいからと言って、
彼らが大人の知性を持っていない訳ではない。
説明とは、逆に、ローコンテクストな人に、
ハイコンテクストの側に来させる方法である。
映画が何故説明と切り離せないかの答えがこれだ。
文学とは、ローコンテクストからはじめるべきで、
それで構築した文脈の範囲内で、
ハイコンテクストな表現になるからである。
2016年12月19日
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