2016年12月23日

流れとは、比較である

時間の正体。
流れとは何か、時間とは何か。
うまく言えなかったのが、なんとなく言葉になった。

流れや時間は、比較から生まれる。


ふたつのものABがあるとしよう。
これらが全然別のもののときは、
違うものがふたつある、
という認識に我々はなる。
そこに時間軸の発生はない。
これは二つの点、
またはふたつあるという一つの点として認識される。

また、BがAと全く同じものAだとしたら、
同じものが二つあるという一つの点として認識される。
これも時間軸は発生しない。

時間軸が発生しないということは、
それはポスター的であるということだ。

私たちの認識機構は、
違うところと同じところを検出するのに向いている。
視神経は特にそうできている。
違いの所を増幅する機構があることが解剖学的にわかっている。

さて、
BがAに微妙に似ているが違うA'の時を考えよう。
たとえば、
同一人物が、
A:右足前左足後ろ
A':左足前右足後ろ
だとすれば、
私たちには「Aが歩いている」ように感じることが出来る。

これが動きや流れや時間感覚の正体ではないか?

さらに。同一人物が、
1:歩いている
2:しゃがむ
3:ジャンプする
という3コマを見れば、私たちはその動きが想像できる。
マンガやアニメーションである。

ところで、
1:歩いている
2':猫がしゃがむ
3:ジャンプする
と、2に猫を入れたとしよう。

「なんで途中で猫になるんだよ」
「かつ元の人間に戻るんだよ」
という違和感が発生する。
つまり、人間が途中で猫になった、
という感覚が発生するわけだ。

人間が途中で猫になる世界観では違和感がないが、
現実ベースの感覚ではそうではない。
つまり、世界を支配している物理法則に、
不自然なときに、流れや動きには違和感が発生する。

そして、その世界観のベースは、
私たちの現実世界である。

物語において、世界観を先に示しておくのが重要なのは、
人間が途中で猫になる世界ならば、
先に示してさえおけば、
上の流れは自然だということに他ならないのだ。

そして、二つ以上異常なことを受け入れるのはしんどいから、
(たとえば人間が途中で猫になり、かつ重力変動が二時間に一回ある)
「嘘はひとつだけ」
という経験的ルールが生まれるわけである。

逆に言えば、
世界のルールに反する流れや動きは、不自然である。


AとA'の関係に戻ろう。
どの程度がAB(全然違うふたつのもの)で、
どの程度がAA(同一のものがふたつ)だろうか?
私たちの、違いと同一の認識機構に依存するのではないだろうか?

つまり、
話の流れというものは、
AA'の関係で進めるのが最も自然である。
ABだと話がふたつあるように見える。
(メインプロットと別の話、サブプロットをはじめるときは、
唐突に別の話がはじまるこの形式になる)
AAだと、話が停滞して退屈になるというわけだ。
(ただくっちゃべってるだけ、同じことをしているだけ、
状況が変わらないとき)

また、AA'が不自然な繋ぎのとき、
無理があったりそんなことあり得ないとき、
世界観に逆らっているとき、
私たちは違和感を感じる。

それが伏線の場合もあるけれど、
伏線でないならばその違和感は除くべきだ。
そして良い伏線とは、その違和感を残さずに引かれているものである。
伏線と違和感がペアになりがちなのは、
無理矢理伏線を入れて、本来自然にいく流れがおかしくなるからだ。
つまり、下手な伏線だというわけだ。

作者の世界の見方と、
観客の世界の見方が大きく異なるとき、
(分かりやすいのは外国映画を見るとき)
世界で自然な流れかどうか判断できず、戸惑うことがある。

たとえば車田正美の漫画は、
連載当時は最先端に面白かったが、
今見ると不自然な流れの塊であるように感じる。
世界の常識が変化したからだと僕は思う。
聖闘士星矢の連載時、リンかけから見てきた僕は、
少し時代遅れになったなあと感じていた。
ところがリンかけの影道一族や阿修羅一族編を知らない世代が、
黄金十二宮編を見て新しい世界観だと興奮したのである。
それも、昭和が終わってだいぶ経つ今では、
世界の常識が変化してしまったように感じるわけだ。
その時に、今の時代にアップデートするか、
不変の世界観で挑むかは、作者の覚悟の問題だと思うけど。

話がそれた。
AA'という流れが発生したとき、
さらにその向かう先が見えることがある。
それが焦点である。
話がそれるというのは、
その焦点の先へ向かっていないということになる。
(焦点の先が見えすぎている場合、
そこに行くのが嫌だとか勿体ないときに、
道草を食いたい心理も人にはある。
それが話の脱線である)


あるいは、AA'の直線的展開が困難なとき、
バリエーションABCDEを見せて、
展開を示すことがある。
これをスプレッドといい、
そこで時間は進んでいないので、
実質話が展開していないということを過去に批判した。



流れの正体。

それは、同じようなものの、微妙に違う所に発生するのではないか。

(一言で言えば変化であるが、
脚本用語の変化は、話がスタートする前と終わったあとでの、
登場人物の変化を示すことが多いので、
混同を避けるためここまで使っていない)

髪切った?というタモリのトークは、
その人の流れを捕らえようとするきっかけになるのだろう。


あなたは、AA'を繰り返して、
それを制御しながら、ラストまで落ちを作らなければならない。
過去のテンプレはある。
しかしテンプレ通りにすることこそ、AAでしかなく、
あなたは物語そのものを作ったとは言えないのである。

「同じだが、違うものをくれ」という、
ブレイクシュナイダーの格言は、
そういうことをも意味していると思うのだ。


私たちは、違いを認識するのに特化している。
それは、二者の比較から生まれる。
比較から、時間軸が誕生する。
posted by おおおかとしひこ at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック