脚本がなかなか認識されづらいのは、
脚本の本質的な部分(構造や流れや、
メインプロットとサブプロットの関係、
すなわち焦点とターニングポイント)が、
具体的な所を捨象しなければ見えて来ないからだ。
それには強烈な障壁がある。
神はディテールに宿るというやつだ。
構造を見破る時の視点から見ると、
神は邪魔をする。
何故なら、愛着はディテールに宿るからである。
キャラクターへの愛着。
台詞への愛着。
間への愛着。
人物同士の関係性への愛着。
空気感への愛着。
ビジュアルへの愛着。
シチュエーションへの愛着。
なんなら、出来上がったフィルムならば、
音楽や色や光線や、役者や表情、
美術やデザインや衣装への愛着。
そういうものが邪魔をして、
それを捨てて脚本的な構造を見破ることを鈍らせる。
これは覚えていた方がいい。
このカットが強烈に好きだ、とか、
この間が最高、とかは、
映画を愛する最も原始的な感情で、
我々のベースになる感情であるが、
それは脚本的なことを考えることとは、
別の話なのである。
部分と全体、ということとも少し違っていて、
表層と深層、という感覚の方が近い。
だからガワと中身みたいな腑分けを僕はよくするわけだ。
また、注意すべきは、
愛着は、恐らくは点に起こり、線には起こらないことである。
時間にして数秒に圧縮出来るか、
時間軸を持たない写真的な記憶に出来ることに限られると僕は考えている。
それは人間の記憶の構造だと僕は思う。
愛着は、「思い出せること」に起こるのではないかということだ。
こういう流れからのこう来たかという流れは、
記憶に残りにくい。
よほど好き者しか、そういう会話をしないだろうね。
大抵の愛着は、点的な記憶の範囲であり、
数分間の構造については起こらないと僕は考える。
さて本題。
他人の作ったフィルムですらそうなのだ。
自分の作ったそれに対して、
そうでないと言えるだろうか?
脚本をあなたが気に入った時、
「どこに」自分の愛着があるかを、
意識してみるといいだろう。
台詞か。場面か。伏線か。
キャラクターか。人間関係か。シチュエーションか。
これは全て点的な記憶の範囲である。
リライトが困難な理由に、
この愛着を簡単には捨てきれない、という心理的障壁があるような気がする。
他人の原稿ならバッサリ切れるのも、そういう理由じゃないか。
客観的になることに時間がかかるのは、
それらの愛着をゼロにすることが困難だからというのも理由のひとつだろう。
もっとも、自分の作ったものに愛着も誇りもないのは、
それはそれで問題なのだが、
その愛着は、作品を悪くしている可能性もあるということに、
気づかなければならない。
自分の愛着は、
点にあるのか線にあるのか、分析してみよう。
もし点にあるのなら、ディテールに囚われている。
名詞かどうかは一つの基準になる。
線に愛着があるのなら、
線を維持したままディテールを変更するリライトは、
容易なはずである。
数ブロックの流れを維持して、
そのシーン全取っ替えも、理屈の上では可能だ。
捨てるの勿体ないなあ、という愛着は勿論あるんだけどね。
しかし、愛着は執念にもなるから、
ドライに行くこともおすすめしない。
魂のこもったホンにはならないだろうからだ。
(ベテランの脚本ほど、
いかようにも直せるホンをわざと書く人もいる。
いつ直しが来ても対応できるように調教された、
一種の奇形かも知れない)
愛着を自覚しながら、捨てたり新たな愛着を産み出せるのがベストだが、
現実にはそこまで湧き出でる泉を持っている訳でもない。
現実的な愛着は、ラストやクライマックスであるべきだと僕は思う。
全てはそこに向かって突き進むはずだからだ。
そのテーマ性への流れが、脚本の最奥の部分だと考えられるからである。
大抵はそこに行くまでのどこかのディテールに愛着が出来てしまい、
そっちが重要になってしまい、
本末転倒のリライトになることが多いと思う。
愛着はディテールに宿る。
点か線かを、自己分析してみよう。
2016年12月28日
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