2017年01月02日

何故実写化するとコスプレ写真になるのか

決定的なのは、生活感がないからではないか。
次に、漫画はそもそも素材の違いを描いていないからではないか。

ジョジョの衣装が公開された。
酷い。
コスプレの問題について考えてみよう。


コスプレにしか見えないのは、
衣装部と撮影部と、制作部にあると思う。

まず制作部から。
衣装写真やポスターは、本編監督がやらない。
だから、監督の衣装への考え方が、
写真の現場に伝わらないことが多い。


自分のドラマの悪口を言うが、
風魔の写真素材は、現場のメイキング写真を除いて、
あまり良くないと思う。
DVDパッケや、HPや、ブロマイド写真だ。
(ティーザーのときは、ホスト写真だと言われたものだ)

ざっくり言えばコスプレ写真だ。
コスプレ写真とそうでない写真の違いは何か。
文脈のありなしではないかと思う。

コスプレ写真は、要するに記念写真である。
衣装全体、表情全体、その人全体を、
背景から切り離して撮影する。
証明写真が何故良くないかの理由がこれだ。

人は、文脈の中で生きている。
記念写真は、それを切り離して撮ってしまう。
またそうであるよう周囲も整える。
ライトは全面に当てて影がないように作るものである。

風魔の公式写真の出来が良くない
(言い方を変えると安っぽい)のは、
全面フラットライトという、
証明写真の考え方で撮っているからだ。
(免許証やパスポート写真と同じ)

同じ役者、同じ衣装、同じポーズでも、
本編撮影中を盗み撮りした、
製作日記の写真はとてもよい。
文脈の気持ちになっていて、
文脈のライトが当たっていて、
文脈の相手がいて文脈の場所にいるからだ。
(逆にコスプレ写真でも、
そういう風に撮ると世界観通りになるよ)

風魔は東宝が制作に入っているが、
そもそも東宝は宝塚を母体としているので、
宝塚の衣装写真の考え方が根底にある。
そもそもが仮装証明写真なのだ。

これを実感するには、東宝カレンダーを入手することをお勧めする。
長澤まさみをはじめ、東宝映画ゆかりのキャストが、
何故だか証明写真のように写っていて失笑する。
撮影機材も照明機材も、衣装もヘアメイクも高いのに、
写真館のような、つまり証明写真のような仕上がりなのである。

つまり、
写真というのはそういうものだと無批判にスタッフィングする、
制作部に責任がある。
僕は彼らキャストをあのように写そうと思ってなかったし、
パッケのトーンも、今のEXILEのような資料を見せたんだけど、
それは撮影カメラマン(本編カメラマンの菊地さんとは違う、
証明写真専門のカメラマンだ)には、
全く伝わっていなかった。
その人に責任はない。あるけど。


さて、衣装そのものの話をしよう。

実写の衣装を、漫画のデザインの通り作るのは間違いだ。
何故なら、
衣装のまず基本になる素材感が、
漫画ではまるで表現できないからだ。
(風魔で言えば、逆に車田の描く学ランは、
実物の学ランより艶っぽい)

漫画で表現できる素材は、
皮やエナメル系、シースルー系、レース系、毛糸系ぐらいではないかな。
あとは全部「布」だよね。
画力の高い人なら、デニムと木綿ぐらいは、
主線の柔らかさやシルエットや皺の形などで描き分けるかも知れないが。

実物の衣装は、たとえば皮系だとしても、
本革、フェイクレザー、エナメルあたりで、
まるで光沢反射が違う。
無論、革のテクスチャ、蛇皮やステッチの入り方でも違う。
そもそも布の裁断の仕方で、
皺の形も変わってくるものである。
これらを理解し、それを描き分ける漫画家はいないだろう。

色にしてもそうだ。
全編カラーで描かないのが前提だから、
なるべく派手な色使いになるものだ。
あるいは、背景から立ちやすい色使いにするだろう。

テクスチャでは、
糸の太さや表面の仕上げ方で、全く違う手触りの布になる。
柄物なんかは漫画やアニメではタブーだろうね。
(静止画一枚なら頑張るだろうけど)

柄物は奥が深く、テキスタイルの世界を少し覗けば、
膨大な柄が世の中にあることがわかる。
たとえばクレラップの柄物は、
50年代フランスで流行して、
現代では流行っていない柄物の布を使用している。
衣装の伊藤幸子さんは、フランスへ毎年布の買付をしにいってるし。
そういうレトロ感が、クレラップの衣装を素敵に見せているわけだ。
(そのテキスタイルは壁紙でも同じだ。過去には、
その時点で流通に乗っていない、廃盤の壁紙を使っていた)

そもそもそういった奥深い衣装のことを、
漫画家は知らないし、描き分けてないと思う。
小畑健クラスでようやくかな。
麻と木綿とシルクとサテンを、たとえば白黒では表現できないだろう。
ところが実写ではそれは伝わる。


さて、
舞台の衣装と映画の衣装の違いは何だろう。

舞台衣装は華やかさを追求して、
豪華絢爛な別世界へ誘うことが目的。
映画の衣装は、リアリティーの枠内で、
とある別世界へ誘うことが目的。

つまり、映画には、生活というごく普通の文脈がある。

ディズニー映画の実写映画は、
いつも失敗している。
それは、衣装に生活感がなく、
舞台衣装っぽいことにも原因があると僕は思う。
舞台衣装とはたとえば、デート服やパーティー服、勝負服と言い換えてもよい。


それを洗濯したり干したり畳んだり、
タンスから出したりコートかけに掛けたり、
転んだときに汚れたり、飲み物をこぼしたり、
何年も着て糸がほつれたり擦りきれたり、
時代遅れなのに着てたり、
人によってセンスがバラバラだったり、
コーディネートがうまく行ってなかったり、
着込みすぎたり薄着すぎたり、
体調に合わせて服を選んでたり、
ポケットに物が入っていたり、
してないからである。


ジョジョに戻ろう。

架空世界の制服だとする。
学校では皆その服だとして、おかしくないのか。
インナーがきれいすぎやしないか。
学校にいくなら、財布や定期入れや自転車の鍵や、
スマホや生徒手帳は、
どのポケットに入っているのか。
コンドームはどこだ。あめ玉やフリスクが入ってるかもだ。
弁当を太ももの上に落としてとっさに拭いたままか。
変な皺がついたままになってないか。
鞄や靴は、どれほどすり減っているのか。
あれは金持ちぼっちゃんの、一年生四月のきれいさだ。


そういう生活感、
言葉を変えるなら、そこにいる実在感が、
写真からは見受けられなかった。
だからコスプレ写真、証明写真にしか見えないのだ。

そしてそれはそのまま、学芸会を想起させるのである。
平たく言えば、記号の写真である。



ようやく本題だ。

これは脚本でも一緒なのだ。
記号に集約されないところに、
生活感がにじみ出る。

それは言葉の選び方や言い方、
行動の中の無言の基準の中に含まれている。
ああ、そういう人はそういうことする(言う)よね、
というのが、その人が本当に生きて生活している、
という実感に直結するものだ。

それは、自分と同世代や近い世界なら書ける。
自分と遠い世界や世代のことがそうやって書けてると、
世界がしっかり存在してる感じがするものだ。
それは直接取材でないと、なかなか気づかないだろうね。


生活感。実在感。
みんながそこで生活していること。
何年も、何十年も、何百年も。
固定せず変化の途中であること。

そういう風にしないと、
全部証明写真になる。
posted by おおおかとしひこ at 20:52| Comment(4) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ですね、学園ものとか、全部新品の服みたいだ
あと、「漫画だから」なとがった髪型やアホ毛があれば
実写だと違和感バリバリなのに無理やり再現する
漫画だからピンク髪・青い髪でキャラ分けしてるのを再現するから浮きまくる
などなど

実写化にあたって、現実感に改造しない
Posted by 実写で再現しようとするから悪い at 2017年07月25日 22:14
実写で再現しようとするから悪いさんコメントありがとうございます。

何のために実写化するのか、
もはや分からなくなっています。
大手に金を回すための公共工事である、
というネットで見た説を僕は支持します。
公共工事でしか景気対策出来ない、首脳が無能だと思います。
Posted by おおおかとしひこ at 2017年07月26日 00:35
衣装に生活感がないから違和感が出るのは本当に思う
高校生がスーツ着てても着られてる感じがするように役者さんにも1週間くらい着せて生活させたらどうだろうかなと思う
服装とか髪型とかメイクは時間をかけてフィットしていくものであって、ある日突然やっても合一がない
Posted by スケアクロウ at 2017年11月05日 14:21
スケアクロウさんコメントありがとうございます。

現場のテクニックのひとつに、「何回か洗濯する」
というのがあります。
でもせっかく作った衣装がよれるので、
衣装さんの中には嫌だという人もいます。
(そもそも新品をただみたいな値段で借りて、
そのブランドの広告にしているから、
パリッとさせないとダメだという事情もあったり)

衣装部にとってはコスチューム=完成品だと考えるわけですね。
で、映画本編は洗濯してリアルにするけど、
ポスターくらいは記念写真のように、
キレイなままにしたいと望むひともいます。

というわけで、予告ポスターは記念写真になってしまい、
コスプレ大会になってゆく。


役者に一週間着させることは、
現在の契約システムでは難しいと考えます。
その一週間は別の仕事をしてるから、
その仕事を出来ないだけの営業保証を払わないといけない。
それは膨大な額になるでしょう。

ハリウッド映画が予算をたくさん使うのも、
この占有料だったりしますね。
(だから役作りに三ヶ月とか平気で出来る)

まあ、日本映画はそれも含めて、大産業ではないということかもね。
本気で映画作ってないだろ、と言われてもしょうがない。
だってリターンが少ないんですもの。

…というようなデッドロックに、
今日本映画は陥っていると考えます。
Posted by おおおかとしひこ at 2017年11月05日 14:45
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