意識の話。
哲学的ゾンビは、
「原子の構成が全く人間で、生きているのだが、
意識はない」存在だ。
あるいはスワンプマン(沼男)とも。
「ある日沼に雷が落ち、
あなたと全く同じ原子の構成をした、
沼から出来た男」のこと。
哲学的には、「彼らに意識があると言えるか?」
を問う。
面白く難しい話はすっ飛ばすとして、
分かっていることは、
「他人に意識があるかないかを知る手段はない」
ということだけだ。
自分に意識があることは分かる。
しかし、他人に意識があるかどうかは分からない。
一応あるという前提で社会は動いている。
しかしあなたの前の他人は、
人間であるか、哲学的ゾンビであるかを、
原理的に区別できない、
というわけだ。
意識の定義とか、
虫に意識はあるかとか、
ロボットに意識は芽生えるかとか、
自由意思とはなにかとか、
意識の連続性とか、
意識すら物理法則の範疇であるとか、
逆に時計や交通網すら意識をもつと考えられるとか、
面白げな話はここではおいておく。
結論のひとつ、
「意識は自分しか確かに存在すると言えず、
他人の中に同様の意識があるかは証明できず、
外から見て、おおむね類推するしかない」
ということが、
脚本論的に重要だ。
一人称と三人称の問題だからである。
つまり、
「自分には確かに意識があり、
その記録を言語にし、
かつ周りで起きたことを文章にした」
のは、一人称である。
これは一人称小説の形式であり、
「他人を外から見て描く」
三人称とはまるで違う形式である。
そして、脚本は三人称だ。
三人称では、
「その人の意識、
つまり気持ちや考えや哲学や感情は、
あるかどうか、それはどのようなものかは、
類推するしかない」のである。
何から?
文脈からだ。
こういう顔をすればそういう感情だとか、
「今こういう気持ちや意図である」という台詞を言っても、
それは確かではない。
何故なら人は嘘をつくからである。
信じられるのは、こういう文脈のときに、
こういうことを言うとかしたとか、それだけだ。
類推は、つまり、文脈への反応で示され、
私たちは三人称形式の演劇(つまり映画)を、
文脈のときに何をするか(あるいはしないか)、
で見るというわけだ。
類推だから、
誤解や嘘、早とちりや騙し、隠し、
ミスリードやどんでん返しが、
本質的になる。
それを利用して話を作れるからだ。
だからこそ、真実の言葉や態度も、貴重になる。
三人称形式はそういうことだと、
頭では分かっているのに、
なかなか私たちは一人称の罠から脱することが出来ない。
それは、主人公を自分と同一視してしまい、
その気持ちを一人称的に思い入れてしまうからである。
主人公も哲学的ゾンビである。
その行動や発言から、意識があると類推するしかない。
類推は、文脈への反応で判断される。
また、主人公以外にも全て意識があると仮定して、
作品内の社会は動いている。
主人公は特別扱いされない。
他人から見たら、他人の中の一人である。
この辺りの、
広く見たり中に入ってみたり、
それを観客からどう見えているかまでを考えられて、
はじめて三人称が自在になる、
と思っておくことだ。
形式的には、実は一人称が書きやすい。
メールも喋りも日記も、全部一人称だ。
皆の前の発表だって一人称でやる人もいる。
自分の体験が一番強いからであり、
自分の意識が一番強いからだ。
だが、三人称形式はそれとは違う。
さて、その辺にいる他人たちを見て、
哲学的ゾンビであることを想像しよう。
彼らに意識があるように見せる、
彼らにあたかも自由意思があると思えるようなときは、
どんなときだろうか。
それが上手くできる人が、
人形使いになれるのである。
2017年01月04日
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