2017年01月04日

哲学的ゾンビ、もしくはスワンプマン

意識の話。


哲学的ゾンビは、
「原子の構成が全く人間で、生きているのだが、
意識はない」存在だ。
あるいはスワンプマン(沼男)とも。
「ある日沼に雷が落ち、
あなたと全く同じ原子の構成をした、
沼から出来た男」のこと。

哲学的には、「彼らに意識があると言えるか?」
を問う。
面白く難しい話はすっ飛ばすとして、
分かっていることは、
「他人に意識があるかないかを知る手段はない」
ということだけだ。
自分に意識があることは分かる。
しかし、他人に意識があるかどうかは分からない。
一応あるという前提で社会は動いている。

しかしあなたの前の他人は、
人間であるか、哲学的ゾンビであるかを、
原理的に区別できない、
というわけだ。

意識の定義とか、
虫に意識はあるかとか、
ロボットに意識は芽生えるかとか、
自由意思とはなにかとか、
意識の連続性とか、
意識すら物理法則の範疇であるとか、
逆に時計や交通網すら意識をもつと考えられるとか、
面白げな話はここではおいておく。


結論のひとつ、
「意識は自分しか確かに存在すると言えず、
他人の中に同様の意識があるかは証明できず、
外から見て、おおむね類推するしかない」
ということが、
脚本論的に重要だ。

一人称と三人称の問題だからである。


つまり、
「自分には確かに意識があり、
その記録を言語にし、
かつ周りで起きたことを文章にした」
のは、一人称である。
これは一人称小説の形式であり、
「他人を外から見て描く」
三人称とはまるで違う形式である。

そして、脚本は三人称だ。

三人称では、
「その人の意識、
つまり気持ちや考えや哲学や感情は、
あるかどうか、それはどのようなものかは、
類推するしかない」のである。
何から?
文脈からだ。

こういう顔をすればそういう感情だとか、
「今こういう気持ちや意図である」という台詞を言っても、
それは確かではない。
何故なら人は嘘をつくからである。
信じられるのは、こういう文脈のときに、
こういうことを言うとかしたとか、それだけだ。

類推は、つまり、文脈への反応で示され、
私たちは三人称形式の演劇(つまり映画)を、
文脈のときに何をするか(あるいはしないか)、
で見るというわけだ。

類推だから、
誤解や嘘、早とちりや騙し、隠し、
ミスリードやどんでん返しが、
本質的になる。
それを利用して話を作れるからだ。
だからこそ、真実の言葉や態度も、貴重になる。


三人称形式はそういうことだと、
頭では分かっているのに、
なかなか私たちは一人称の罠から脱することが出来ない。
それは、主人公を自分と同一視してしまい、
その気持ちを一人称的に思い入れてしまうからである。
主人公も哲学的ゾンビである。
その行動や発言から、意識があると類推するしかない。
類推は、文脈への反応で判断される。

また、主人公以外にも全て意識があると仮定して、
作品内の社会は動いている。
主人公は特別扱いされない。
他人から見たら、他人の中の一人である。

この辺りの、
広く見たり中に入ってみたり、
それを観客からどう見えているかまでを考えられて、
はじめて三人称が自在になる、
と思っておくことだ。

形式的には、実は一人称が書きやすい。
メールも喋りも日記も、全部一人称だ。
皆の前の発表だって一人称でやる人もいる。
自分の体験が一番強いからであり、
自分の意識が一番強いからだ。


だが、三人称形式はそれとは違う。
さて、その辺にいる他人たちを見て、
哲学的ゾンビであることを想像しよう。
彼らに意識があるように見せる、
彼らにあたかも自由意思があると思えるようなときは、
どんなときだろうか。
それが上手くできる人が、
人形使いになれるのである。
posted by おおおかとしひこ at 11:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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