で、三人称形式における感情移入とは、
「わたしたちが意識があると感じられるもの」
に行われるのだと思う。
感情移入の対象は、
虫でもロボットでも構わない。
擬人化とはそういうことだ。
また人間でも子供でも老人でも、同性でも異性でも、だ。
そこに意識がないようなものには感情移入出来ない。
多くの感情移入を妨げる要素が、
「この人がなにを考えて行動しているかわからない」
ことが原因であることからも、
これは推理できる。
つまり感情移入とは、少なくとも、
「この人が今何を感じ、
何を考え、何を狙って行動しているか、
すなわち意識が明瞭に意識できるか」
ということに関係していることがわかる。
それは恐らく、
「自分と似た外見とか、同性とか同年齢とか、
似たような立場とか」よりは優先度が高いということだ。
感情移入は全然自分と違う人にも起こる。
自分と似てるかどうかよりも、
その人の意識がはっきり分かることのほうが、
優先なのである。
何故なら、三人称形式は類推するしかないからだ。
どうやってその人の意識をわかるか、
ということについては、
経験的に、としか言いようがないかも知れない。
分かりやすいほうが分かりにくいよりも良だが、
平凡であっては意味がない。
レアケースで人目を引くのに、
かつ理解できなければならない。
だから、
「シチュエーションや立場は特殊だけど、
似たようなことがあるので理解できる」
という案配が一番いいのでは、
という僕の仮説は、あっているような気がする。
ところで。
役者がよく、
「今回の役は全力で頑張りました。
最初に役を頂いたとき、びっくりして、
でも役に向き合っているうちにこの人のことが分かってきて、
僕にも同じようなことがあったので。
この人は理解されてないだけなんです」
なんて、「役作り」について語るインタビューがある。
僕はこれを認めていない。
何故なら、これは「役を演じる役者への感情移入」になり、
「役そのものへの感情移入」ではないからだ。
芸能人は得をする。ファンも得をする。
しかし、本編が損をする。
その人がいる、のではなく、
その役者が演じている、ことに感情移入するからである。
演じているのだと意識されては、
その人への意識の同調の妨げになってしまうからだ。
役者のファンにはとても良いサービスが、
実際邪魔になるわけだ。
(まあ、そのうち「その人」に見えてくるんだけど。
下手な脚本だと「その役者が」にしか見えないよね。
だとするとだよ。下手な脚本のほうが、「その役者が」を見に来るファンむけに、
楽しいのかも知れないという逆説が存在する。
ジャニ推し映画がその代表で、
結局脚本はどうでも良くなってしまったんじゃねえの?)
感情移入は、三人称形式における、
他者への類推で起こる。
自己開示はコミュニケーションの原則というが、
それは「わたしの意識をどうぞ類推してください」
ということに他ならない。
映画の場合は、かつ、面白くならなきゃいけない。
2017年01月04日
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