2017年01月04日

意識の話、つづき

で、三人称形式における感情移入とは、
「わたしたちが意識があると感じられるもの」
に行われるのだと思う。


感情移入の対象は、
虫でもロボットでも構わない。
擬人化とはそういうことだ。
また人間でも子供でも老人でも、同性でも異性でも、だ。

そこに意識がないようなものには感情移入出来ない。
多くの感情移入を妨げる要素が、
「この人がなにを考えて行動しているかわからない」
ことが原因であることからも、
これは推理できる。

つまり感情移入とは、少なくとも、
「この人が今何を感じ、
何を考え、何を狙って行動しているか、
すなわち意識が明瞭に意識できるか」
ということに関係していることがわかる。

それは恐らく、
「自分と似た外見とか、同性とか同年齢とか、
似たような立場とか」よりは優先度が高いということだ。
感情移入は全然自分と違う人にも起こる。
自分と似てるかどうかよりも、
その人の意識がはっきり分かることのほうが、
優先なのである。

何故なら、三人称形式は類推するしかないからだ。


どうやってその人の意識をわかるか、
ということについては、
経験的に、としか言いようがないかも知れない。
分かりやすいほうが分かりにくいよりも良だが、
平凡であっては意味がない。
レアケースで人目を引くのに、
かつ理解できなければならない。
だから、
「シチュエーションや立場は特殊だけど、
似たようなことがあるので理解できる」
という案配が一番いいのでは、
という僕の仮説は、あっているような気がする。



ところで。
役者がよく、
「今回の役は全力で頑張りました。
最初に役を頂いたとき、びっくりして、
でも役に向き合っているうちにこの人のことが分かってきて、
僕にも同じようなことがあったので。
この人は理解されてないだけなんです」
なんて、「役作り」について語るインタビューがある。

僕はこれを認めていない。
何故なら、これは「役を演じる役者への感情移入」になり、
「役そのものへの感情移入」ではないからだ。
芸能人は得をする。ファンも得をする。
しかし、本編が損をする。
その人がいる、のではなく、
その役者が演じている、ことに感情移入するからである。

演じているのだと意識されては、
その人への意識の同調の妨げになってしまうからだ。
役者のファンにはとても良いサービスが、
実際邪魔になるわけだ。
(まあ、そのうち「その人」に見えてくるんだけど。
下手な脚本だと「その役者が」にしか見えないよね。
だとするとだよ。下手な脚本のほうが、「その役者が」を見に来るファンむけに、
楽しいのかも知れないという逆説が存在する。
ジャニ推し映画がその代表で、
結局脚本はどうでも良くなってしまったんじゃねえの?)


感情移入は、三人称形式における、
他者への類推で起こる。
自己開示はコミュニケーションの原則というが、
それは「わたしの意識をどうぞ類推してください」
ということに他ならない。
映画の場合は、かつ、面白くならなきゃいけない。
posted by おおおかとしひこ at 11:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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