2017年01月13日

自己表現という履き違え

脚本は自己表現ではない。
ストーリーは自己表現ではない。
あなた自身を表現するのに、
三人称型の芝居の、
文字だけのヘンテコな形式のメディアが向いてるとは思えない。

頭では分かっていても、
なかなか混同してしまう。


自分のやりたいこととそうではないことの間で悩む。
自分のセンスと他人のセンスが違うことで悩む。
ほんとに自分のやりたいことは、これで良かったのかと悩む。
自分の色を出さなきゃとか、自分の爪痕を残さなければ、と悩む。
自分がこういう才能だと見られる、なんてプレッシャーを感じる。

これらは、脚本を自己表現と混同することから生じている。


そうするとね。
「自分は何者か」という迷路にはまるんだ。
あなたが何者かの答えを、あなたは100%知ってるかい?
それが答えられたら、人生の完成じゃない?
(それを不惑というのかもだ)

じゃああなたの答えが出るまでは、
脚本を書かなくていいじゃないか。
(そうやって、「俺は小説家になる」なんて言いながら、
まだ一文字も書いてない人を知っている)

あなたが何者かどうかは知らん。
あなたの書く話が面白いかどうかだけが、
みんなの関心事なんだ。

さらに言うと、
主人公が魅力的かどうかとか、
シチュエーションからの脱出に惹かれるかどうかとか、
サブキャラにいい味出してるのがいるかとか、
泣けるか泣けないかとか、
笑える笑えないとか、
ワクワクするかしないかとか、
ドキドキするかしないかとか、
ニヤリと出来るか出来ないかとか、
感心するかしないかとか、
要するに、

夢中になれるかどうかしか、
見ていないよ。



あなたと作品は一致しない。

ピュアな心の人がピュアなラブストーリーを書くと思ってたり、
私生活が面白い人が芸人やってると思っているのだとしたら、
あなたは何も知らないドシロウトだ。

私たちプロは、
自分と違う世界をつくる、
プロの嘘つきである。

自分だけが好きな世界をつくるのがアマチュア。
他人に受ける世界をつくって我を抑えるのがセミプロ。
天才や真のプロは、自分が大好きでかつ他人に受けるものをつくる。

自分とは何かなんて、意味がない。
あなたが何者か100%確定していようが、
まだ誰なのかも分からないアイデンティティーが揺らいでいようが、
脚本が面白ければなんでもいいし、
たぶん面白さにそれは関係がない。


自己表現とか、自己実現なんて言葉は、
耳ざわりのいい、
セミナーにお金を払わせるコピーライティングにすぎない。
(それを想像して気持ちのいい言葉は、
思考を麻痺させる。それは砂糖のようなものだ)

その言葉の誘惑に負けて、
自分らしく、とか考えてはだめだ。
作品を純粋に面白くすることへの、ノイズになる。
posted by おおおかとしひこ at 14:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック