旅とか物語の共通点は、
こういうことじゃないかと思う。
物語はよく旅にたとえられる。
旅する物語(ロードムービー、どこどこまで行かなければならない話、
追いかけて世界中行く羽目になる話など)
も多いけど、
半径3メートルの大冒険旅行だって立派な旅という物語になる。
旅と物語の共通点は、
「普段やらないことをやる」ことである。
旅は具体的に別世界に行くから、
それだけで既に普段ではない。
逆に、普段ではない世界に行くことが旅である。
(女が旅が好きなのは、普段の世界に飽き飽きしてるからか?
男はほっておいても旅に出る習性がある気はする。
それは、男は一人旅がしやすい生き物だからかも知れない)
普段ではない世界だから、危険がある。
危険は旅のスパイスである。
完全に安全だと保証されてる旅は、旅ではない。
移動である。
日常に属する移動と、
非日常に属する旅の違いだ。
物語でも同じで、
危険のない物語は物語ではない。ただの処理である。
(危険のない所に危険を発生させる最もポピュラーなテクニックは、
締め切りをつくり、カウントダウンしていくこと。
ティッキングクロック(カチカチいう時計。爆弾についてるやつね)
という)
物理的に他の所へ行かなくても、
普段ではないことをすれば、危険は伴う。
たとえば「上司に楯突く」、
というのは、危険を伴う普段ではない行為だから、
比喩的な、旅という物語を発生させる可能性がある。
この、
「今普段のルートを外れたら何が待っているのだろう」
というワクワク感は、
旅に出るワクワクと似ていると思う。
旅には目的地がある。
物語にもなければならない。
目的のない旅は、ぐだぐだだからだ。
たまにはぐだぐだもいいけれど、
人が求めているのは、きっちり練られた娯楽である。
目的というのは、
「その旅がそれを達成すれば終わりだ」と、
「旅に出る前から分かっているもの」をいう。
仮に、あてのない旅だとしても、
「日常から離れてみたい」とか、
「その為にとりあえずあそこまで行ってみよう」なんてものがあり、
「○日間はそこに居て、帰ってこよう」なんて、
ふわっとした計画があるものだ。
なくても、「金がなくなったら帰ってこよう」とか。
いずれにせよ、
旅に出る時点で、旅の終わりは見えている。
日常に帰ってくること前提のものを旅という。
(帰ってこない前提のものは、移住という。
旅も物語も、移住ではない。
帰ってくる前提のありなしである)
勿論、物語においては、
帰ってこない前提で冒険に出るときもある。
しかし最終的には、
ラストシーンで「新たな日常」へ帰還する。
いつまでも危険のなかにいるのは、
人間持たないからだ。
(勿論、典型的な、日常に帰ってきたエンドを批評するために、
危険ループ落ちや、バッドエンドなどが存在するが、
後味悪さが、後味良いものへのカウンターとして面白いからに過ぎない。
砂糖の中に塩を入れることと同じである)
旅も物語も、
日常に帰ってくる。
意味のない旅はない。
何かしら、新たな発見をするものだ。
しかし、完全に新しいものはない。
発見とは、
「既に似たようなことを知ってはいたが、
今全く意識には上っていないことを、
ああやっぱりそうだなと実感し、
その価値のポイントがアップし、
意識の上に上るようになり、
自分の価値体系が少し変わる」
というようなことではないか。
先日僕はブラジルにロケという旅をして来たのだが、
仕事時間以外はちょっとした一人旅気分だ。
ブラジルの人たちの、他人と触れあう感覚が、
日本と同じところもあり、違うところもあった。
身内は物凄く信用するし、
他人は物凄く信用しないのが、
多分昔の日本の田舎と同じなのだろうと思わせた。
(今の東京は、誰もあんなに信用しないよね。
一緒に居てもスマホをいじって別世界にいるものね)
そんな人との距離の取り方を、
改めて発見して帰ってきた。
物語が旅にたとえられるのは、
終わったあとに、そのような価値の(再)発見があるからだ、
と僕は思う。
全く新しいことを発見するわけじゃない。
それは科学的発見、人類未到達の新事実になってしまう。
そうじゃなくて、
旅した先の、「既にどこかで発達した人の社会」に触れて、
「こういう人や社会のあり方もある。
知識としては分かっていたことだけど、
私(や私の周囲)には欠けていた」と、
自分を補完する発見のことである。
物語のテーマが、
全く新しい科学的発見である必要はない。
あなた独自の新しい哲学である必要もない。
それは、論文を書くべきで、
世界に主張すればよいことだ。
物語は主張することに向いてない。
主張するために作られたプロパガンダが、
世界を良い方向へ変えた事実はない。
世界を変えるのは、
「私たちはこれを忘れていた」と、
皆が心震える価値である。
シンゴジラが詰まらなくて、
君の名はが面白かった理由はこれだ。
シンゴジラは庵野のプロパガンダだった。
君の名はは、
「会いたい、という原始的な感情を叶えることのたのしみ」
みたいなことの価値を、ケータイ登場以後、
初めて思い出させてくれた映画なのである。
これだけネットが発達して、
会えないことなんてない。
だから、会うことそのものの、たのしみが薄れている。
君の名はは、
「会えないつらさと会うために努力すること」という、
みんな大好き遠距離恋愛や、会いたくて震えるやつの、
価値の再発見なのである。
(シンゴジラが破壊衝動のたのしみを思い出させてくれるかと期待したが、
私たちは既に311でその衝動を不謹慎ながら味わってしまった。
つまり、その価値はハナから封じられていた。
その代わりになる何を作るかが、
シンゴジラに課せられたオリエンだったはずだ。
博多の陥没復旧は、図らずもシンゴジラに必要だったのは、
この復旧のカタルシスではないかと思わせた)
ということで、
旅と物語は似ている。
その物語を経て、
新しい価値を、忘れていた価値を、
それがリアルだと思い出すこと、
再発見することが、
最終的になされることである。
その価値を、テーマという。
(テーマは主張ではない。
その話は過去記事に詳しい)
そうなっていない物語は、
つまり、危険なことをして、
なんにも得るものがなかったのは、
旅として空振りである。
つまり、面白くなかった物語だ。
物語が楽しめたかどうかは、
新しい価値に出会えたか出会えなかったか、
忘れていた何かを思い出せたか出せなかったか、
それがリアルに今大切だと思えるか思えないか、
なんてことに関係していると僕は思う。
僕はたまに、コパカバーナ海岸の、
大西洋の波を思い出す。
海はどこも同じ。しかしこの海岸は特別美しく、
ここでも地球は回っている。
そんな感覚を、
僕は物語にも求めているのだ。
(最近そういうのに出会ってないのは、
色んなリアルを知りすぎたからか)
家の中の半径1メートルの小さな旅でもいい。
地球の裏側や、隣の銀河系までの旅でもいい。
空間的スケールは関係ない。
私たちの日常意識と、旅を終えた意識の距離が、
大きく離れているほど、
その物語は、スケールが大きくて素晴らしいと僕は思う。
旅の果実は、写真とかお土産じゃない。
私たちの心の変化である。
2017年01月19日
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