人間というものは、
見た目に現れる表情や言葉や仕草と、
心の中は違うものである。
表面上に現れた言葉が常に正しいわけではない。
(「ただちに影響はない」は、
「長期的には壊滅的な影響を及ぼす蓋然性が高い」
を意味することもある。
「あなたがすき」は、
人質にした犯人に言えば、「殺してほしくない」の
意味のこともある)
三人称は心の中を見ることはできない。
カメラは人の心の中に入れない。
(小説や漫画では、心の中の台詞を言うことが出来る。
しかし映画や演劇でその手法は、
ごく短い以外は通常使わない)
本心は、我々観客の推測でしかない。
見た目に現れたことと本心が違うのなら、
どうしてそれを推測させるのか。
最もポピュラーな方法は、
そのシチュエーションなら当然すること、当然言うことを、
しないこと、別のことをすることである。
例:甲子園球児が、選手宣誓のときに、
「先生。世界平和とはなんでしょうか」と尋ねる。
例:ヤクザが人を脅すときに、
怖い顔ではなく、優しい顔で優しい言葉をいう。
例:付き合っている二人のはずなのに、
セックスがない。
(具体的には、ホテルを前にすると別の道に行こうとするとか)
などなど、いくらでもやり方がある。
変形には、異質だと思ったらそのまんまだったというのもある。
SPAの「そのまんま川柳」なんてのはそれの応用だ。
本心は顔や表情ではなく、
無意識の仕草に現れる、
なんて男女の口説きの心理学でよく言われるが、
仕草だけじゃちょっと弱い。
契約の場で不利な条件を押し付けられたが、
飲まなければいけないときに、
その場は笑顔で、テーブルの下の拳は震えている、
なんてのは、
仕草でしか表現していないので、弱い(下手な)表現である。
前の場面に、理想となる契約条件を夢見ておいて(焦点)、
契約の場でいきなり不利な条件を出され(ターニングポイント)、
一瞬表情が固まるが(感情)、
笑顔に戻し大過なく契約を終える(リアクション)ほうが、
この人が、
表面と本心が違うことを表現できる。
全ては流れで表現するべきだ。
文脈に沿っているのか、
逆らっているのかで、
その人が本心を出しているのか、
隠しているのかすら分かるものだ。
その為に文脈を用意するのである。
よくあるのは、
望まぬ人との結婚式である。
バーンと扉を開けて男が迎えに来たとき、
その女の本心が現れるのである。
つまり新しい話を作るということは、
こういった、
「シチュエーションと文脈の新しい組み合わせ」を作ることに他ならない。
結婚式にバーンと男が迎えに来るのは、
初めて表現された時は新しかったが、
いまやギャグに使われるほど陳腐な古い表現だ。
新しい組み合わせを作れたら、
それは新しい流行になるだろう。
本心は今どっちだ。
それを表情で示すことが出来ないのは、
クレショフのモンタージュ実験が示している。
女の笑顔ほど信用ならないものはない、
ということの実験的な証明でもある。
(デビットフィンチャーの「ゴーンガール」は、
最初と最後の嫁の笑顔が同じカットだったら、
映画史に残る傑作カットだったのに!
ウッデイアレンなら、確信犯で同じカットを使ったよ!)
我々は表情から読み取るのではなく、
文脈と表情の関係性で読み取るのである。
文脈に対する決断(表情、行動、発言)が、それを示す道具になる。
その為に、
「その人を試す場面」という文脈を与えると、
反応を誘導出来るよ。
2017年01月19日
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