興行という面から映画を考える。
企画興行には、必ず目玉がある。
その目玉をセッティングするのが、
(広い意味での)興行師の仕事だ。
その目玉とは。
たとえば、去年の紅白は、
SMAPのサプライズ出演が目玉だとずっと言われていた。
それありきで周りを固めていたが、
どういうわけか交渉が上手く行かず、
目玉なしの紅白になったわけだ。
目玉のわかりやすいやつは、
「あの、○○が、△△をする!」
というやつだろう。
あの(「別に」事件で干された)沢尻エリカが脱ぐ!
というのがヘルタースケルターという「興行」の目玉だった。
岡崎京子のリアルタイムのファンだった僕は、
まだこの映画を観ていない。
80年代アイドルの狂気と、
公開当時の狂気は異なると思っていたし、
それが沢尻エリカの狂気で購えるとも思っていないし、
それは原作を汚された気になるからだ。
興行、
つまり、今の世の中に、
目玉を投入して、
人目をひきつけ、ざわざわさせて、
人を集めて稼ぐ(満足させる)、
流行を生み、再生産の流れをつくる、
という意味では、
沢尻エリカが脱ぐだけの理由があればなんでもよかった。
ここに、作品性と興行性の逆転があるわけだ。
人は作品性を見るのか、興行性を見るのか。
興行でその場まで足を運び、
作品性で満足するはずである。
単なる興行ならば、
「沢尻エリカヌードショー」でよいはずだ。
しかしそれじゃあ映画じゃない、
と思う人々の心を裏打ちするために、
物語という作品性があるのだ。
じゃあ作品性ってなんだ、という話である。
作品性とは、
事件とその解決という筋から炙り出される、
テーマというものが、
とても心震えて、心の奥底にしっかり残って、
自分の世界ががらりと変わって、
それがなるべく多くの人々に響くものだと思う。
(深さと広さという、対立しがちな要素はある)
それと興行性は、実はあまり関係がない。
(だって興行収入は、
見る前のお金で、見終えたあとのお金ではないからだ。
前払い制の風俗と同じである)
つまり。
本来関係がない、
作品性と興行性の両立こそが、
成功する映画には不可欠なのだ。
作品性だけでは誰かに知らせにくい。
興行性だけでは中身のないショーになる。
昨今の原作実写化の流れで、
興行性だけを追求して、
作品性がへたれてしまった。
理想は、
作品性のあるものに、興行性を加えて素晴らしいものにすることだ。
ところが、
興行性ありきで、後付けでそれに合う作品性を要求されるから、
おかしなことになっていくのである。
で。
今、ずらっと脚本を並べて、
作品性の順に並べることの出来る、
批評的な目を持った業界人が、
どれくらいいるのかなあと思った。
興行性の順に並べることは、ある程度出来そうだ。
だって誰が何をするか、そこに書いてあるからだ。
出演者が決まってなくても、
鉄板要素(女子高生ものとか、信長とか)
があれば、ある程度ヒットするのは読めるかも知れない。
その興行性を抜きにして、
作品性だけで勝負する力を、
どれだけ見抜けるだろうかね。
見抜けないから、
初見のオリジナル脚本なんてやらずに、
すでに出来上がっているもののアレンジだけで、
仕事をしようとしているのではないか。
これは、個人でなく集団の話をしている。
個人でそういう人がいても、
その人が集団を動かせないのなら、
映画は作れない。
どんなに個人プロデューサーが僕の脚本を気に入ろうが、
その先の、脚本が読めない人に、
目玉は何かねと言われてポシャるばかりだからだ。
目玉は、ウリという言葉に最近置き換えられてきた。
目玉というほどのことを持ってこれないので、
ウリという控えめなものに置き換わったのだと想像できる。
ウリはなんだね。
そう尋ねられたら、
目玉を用意しておけばいいのだ。
そういえば10年ぐらい前、
サイバラの実写化に挑んでいたとき。
毎日かあさんの実写化をしようと粘っていて、
その時も、ウリはなんだね、
という抵抗が沢山あった。
僕が提案した、「サイバラ役は土屋アンナ」
(「下妻物語」で有名になった直後ぐらいの勢いのあるとき)
というのがキラーワードになり、
実は実写化寸前まで行ったのである。
原作者との折衝段階になって、
鴨ちゃんがもう危ないという事実を聞き、
公開しても不謹慎になる危険があると判断が下された。
時期が悪かったとしか言いようがなく、
それは興行と言うものの宿命である。
311があって津波ものは続々と公開中止があったし。
で、この話の教訓は、
「破天荒な女キャラが、破天荒なサイバラを演じる」
という目玉があったら、
興行師は動くということである。
興行師は常にアンテナを張っている。
その興行師は、新しい目玉の提案を待っている。
その興行師は、作品性のことは分からない。
興行的にいけるかどうかは分かるが、
作品性のことまでは考えが及ばない。
そういう人に見せると思うといい。
つまりその人は脚本を読むことはない。
目玉だけ見て、あとはあなたが信用できる人かどうかを見極めて、
ゴーかどうかを判断するだろう。
つまり。
あなたがどれだけ作品性に心血を注いでも、
観客以外(あなたという出口と、観客という入口の間にいる、
中間スタッフ)は、
その作品性には興味がない。
そう断言してもいい。
ということは、
作品性に関しては自分の内に秘め、
興行性だけを持って話をするといい。
それは、
「この目玉いいよね」「この目玉いいよね」
という会話になるはずである。
「この目玉いいよね」「いやあ、目玉にならないね」
という会話になったら、
その企画は、どんなに作品性があっても、
没という闇に消える運命なのである。
僕はガワを馬鹿にしているのではない。
ガワばかりで中身がないことを批判している。
最近、中身を判断できる人はすくないのだ、
ということに気づいてきた。
となると、
目玉を用意してあげればいい、
という結論に気づいた。
目玉に乗っかってくれば、
ストーリーはこちら任せにさせてもらったほうが、
恐らく互いに幸せになるだろう。
あなたの話の目玉は何かね?
「話の」目玉である必要はない。
そうすると大どんでん返しとか分岐プロットとかの、
新しい構造を発明しなきゃいけなくなる。
そうじゃない。
あなたの企画の、目玉は何かね?
それぐらい大雑把に見てみることだ。
下手したらその話でなくても成立する目玉。
興行師は、目玉を売り買いするのである。
(万城目学の騒動に関して、色々言いたいことがある。
しかし、それが何故起こるかを考えたのが本稿だ。
作家は作品性が大事だ。
興行師は目玉が大事だ。
目玉取扱い師が、他人の目玉を盗用した。
それだけのことかも知れない)
2017年01月22日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック