2017年01月22日

目玉はあるか

興行という面から映画を考える。

企画興行には、必ず目玉がある。
その目玉をセッティングするのが、
(広い意味での)興行師の仕事だ。


その目玉とは。

たとえば、去年の紅白は、
SMAPのサプライズ出演が目玉だとずっと言われていた。
それありきで周りを固めていたが、
どういうわけか交渉が上手く行かず、
目玉なしの紅白になったわけだ。

目玉のわかりやすいやつは、
「あの、○○が、△△をする!」
というやつだろう。


あの(「別に」事件で干された)沢尻エリカが脱ぐ!
というのがヘルタースケルターという「興行」の目玉だった。
岡崎京子のリアルタイムのファンだった僕は、
まだこの映画を観ていない。
80年代アイドルの狂気と、
公開当時の狂気は異なると思っていたし、
それが沢尻エリカの狂気で購えるとも思っていないし、
それは原作を汚された気になるからだ。

興行、
つまり、今の世の中に、
目玉を投入して、
人目をひきつけ、ざわざわさせて、
人を集めて稼ぐ(満足させる)、
流行を生み、再生産の流れをつくる、
という意味では、
沢尻エリカが脱ぐだけの理由があればなんでもよかった。

ここに、作品性と興行性の逆転があるわけだ。

人は作品性を見るのか、興行性を見るのか。


興行でその場まで足を運び、
作品性で満足するはずである。


単なる興行ならば、
「沢尻エリカヌードショー」でよいはずだ。
しかしそれじゃあ映画じゃない、
と思う人々の心を裏打ちするために、
物語という作品性があるのだ。

じゃあ作品性ってなんだ、という話である。


作品性とは、
事件とその解決という筋から炙り出される、
テーマというものが、
とても心震えて、心の奥底にしっかり残って、
自分の世界ががらりと変わって、
それがなるべく多くの人々に響くものだと思う。
(深さと広さという、対立しがちな要素はある)

それと興行性は、実はあまり関係がない。
(だって興行収入は、
見る前のお金で、見終えたあとのお金ではないからだ。
前払い制の風俗と同じである)


つまり。

本来関係がない、
作品性と興行性の両立こそが、
成功する映画には不可欠なのだ。

作品性だけでは誰かに知らせにくい。
興行性だけでは中身のないショーになる。


昨今の原作実写化の流れで、
興行性だけを追求して、
作品性がへたれてしまった。

理想は、
作品性のあるものに、興行性を加えて素晴らしいものにすることだ。
ところが、
興行性ありきで、後付けでそれに合う作品性を要求されるから、
おかしなことになっていくのである。

で。

今、ずらっと脚本を並べて、
作品性の順に並べることの出来る、
批評的な目を持った業界人が、
どれくらいいるのかなあと思った。

興行性の順に並べることは、ある程度出来そうだ。
だって誰が何をするか、そこに書いてあるからだ。
出演者が決まってなくても、
鉄板要素(女子高生ものとか、信長とか)
があれば、ある程度ヒットするのは読めるかも知れない。

その興行性を抜きにして、
作品性だけで勝負する力を、
どれだけ見抜けるだろうかね。

見抜けないから、
初見のオリジナル脚本なんてやらずに、
すでに出来上がっているもののアレンジだけで、
仕事をしようとしているのではないか。

これは、個人でなく集団の話をしている。

個人でそういう人がいても、
その人が集団を動かせないのなら、
映画は作れない。
どんなに個人プロデューサーが僕の脚本を気に入ろうが、
その先の、脚本が読めない人に、
目玉は何かねと言われてポシャるばかりだからだ。


目玉は、ウリという言葉に最近置き換えられてきた。
目玉というほどのことを持ってこれないので、
ウリという控えめなものに置き換わったのだと想像できる。

ウリはなんだね。
そう尋ねられたら、
目玉を用意しておけばいいのだ。



そういえば10年ぐらい前、
サイバラの実写化に挑んでいたとき。
毎日かあさんの実写化をしようと粘っていて、
その時も、ウリはなんだね、
という抵抗が沢山あった。
僕が提案した、「サイバラ役は土屋アンナ」
(「下妻物語」で有名になった直後ぐらいの勢いのあるとき)
というのがキラーワードになり、
実は実写化寸前まで行ったのである。
原作者との折衝段階になって、
鴨ちゃんがもう危ないという事実を聞き、
公開しても不謹慎になる危険があると判断が下された。
時期が悪かったとしか言いようがなく、
それは興行と言うものの宿命である。
311があって津波ものは続々と公開中止があったし。

で、この話の教訓は、
「破天荒な女キャラが、破天荒なサイバラを演じる」
という目玉があったら、
興行師は動くということである。

興行師は常にアンテナを張っている。
その興行師は、新しい目玉の提案を待っている。
その興行師は、作品性のことは分からない。
興行的にいけるかどうかは分かるが、
作品性のことまでは考えが及ばない。

そういう人に見せると思うといい。

つまりその人は脚本を読むことはない。
目玉だけ見て、あとはあなたが信用できる人かどうかを見極めて、
ゴーかどうかを判断するだろう。


つまり。

あなたがどれだけ作品性に心血を注いでも、
観客以外(あなたという出口と、観客という入口の間にいる、
中間スタッフ)は、
その作品性には興味がない。

そう断言してもいい。

ということは、
作品性に関しては自分の内に秘め、
興行性だけを持って話をするといい。


それは、
「この目玉いいよね」「この目玉いいよね」
という会話になるはずである。

「この目玉いいよね」「いやあ、目玉にならないね」
という会話になったら、
その企画は、どんなに作品性があっても、
没という闇に消える運命なのである。



僕はガワを馬鹿にしているのではない。
ガワばかりで中身がないことを批判している。

最近、中身を判断できる人はすくないのだ、
ということに気づいてきた。
となると、
目玉を用意してあげればいい、
という結論に気づいた。

目玉に乗っかってくれば、
ストーリーはこちら任せにさせてもらったほうが、
恐らく互いに幸せになるだろう。



あなたの話の目玉は何かね?

「話の」目玉である必要はない。
そうすると大どんでん返しとか分岐プロットとかの、
新しい構造を発明しなきゃいけなくなる。
そうじゃない。

あなたの企画の、目玉は何かね?
それぐらい大雑把に見てみることだ。

下手したらその話でなくても成立する目玉。

興行師は、目玉を売り買いするのである。


(万城目学の騒動に関して、色々言いたいことがある。
しかし、それが何故起こるかを考えたのが本稿だ。
作家は作品性が大事だ。
興行師は目玉が大事だ。
目玉取扱い師が、他人の目玉を盗用した。
それだけのことかも知れない)
posted by おおおかとしひこ at 16:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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