2017年01月23日

手書きで暴れて、清書で整える

人によるかも知れないけれど、
僕は手書きのほうが原始的なことばが出てくる。

自分の脳や身体に直結した物言いになる。
だから短いコピーを書くとき、
台詞を書くときは、絶対に手書きで一発目を書く。
筆が走ってるときは、
ト書きを飛ばして台詞だけ書いて、
あとで絵のことを書き添えるぐらいだ。

それを、パソコンに文字おこしするときに、
冷静になって整えている。


原始的であることと、
洗練された表現は異なる。
洗練とはTPOをわきまえることだと思う。
どんな場面でも、
髪を振り乱して全裸でいてよい訳ではない。

しかし、洗練からは原始的な強い表現は生まれない。
お坊っちゃんには泥んこは無理なのだ。

だから、
まず野生で書いて、あとで服を着るべき所を着るようにしている。

このプロセスに、
一度手書きで全部書き、
文字おこししながら整えていく、
という僕の方法論は最適化されているように思える。

文字おこしのときに、
言わなくていい台詞を切ったり、
余計な段取りを省略したり、
説明不足のところは足していったりして、
清書第一稿がしあがるようになっている。
だから文字打ち第一稿は、
手書き第一稿と異なる原稿に既になっている。

裸で熱情を通し、
それを服を着ながら表現する感じに、
手書きの暴れ文字と、
一マス一文字に整然と整った活字は、
対比的な役割を果たすと考える。


書道を少しやれば分かるけど、
日本語は、一マス一文字に収まるようには書かない。
漢字は大きく、かなは少し小さめに書く。
「い」は横長だし、「し」は縦長だ。

日本語のフォントは、そのようなことを考えられて作られていない。
一マス一文字に収まるように作られたフォントだ。
(だから広告の文字打ちでは、
キャッチコピーなどの目立つ文章は、
すべて文字間を変えたり、漢字とかなの大きさを変えたりして、
より書道に近いニュアンスにしている。
丁寧なアートディレクターなら必ずやることだ)

英語のカリグラフィですら、
「office」のffiの部分は、ローマン体なら繋げて印字されるように、
デフォルトが設定されている。
英語の伝統的な文字の表記に、
一マス一文字原則が壊れる瞬間だ。
(英語ベースで開発されたwordは、カーニングがデフォルトだ。
だから文字数とマス数は合わないんだよね)

話がそれた。

ということで、
日本語の一マス一文字印字は、
無味乾燥だ。
それが公式的な、人前的なニュアンスになると思う。
特に明朝体は、
ネットやSNSがゴシック体を多用していることもあって、
とても公式的なニュアンスがある。

だから、
僕は第一稿を文字打ちから始めるのを推奨していない。


原稿用紙しかなかった時代、
ワープロの登場によって、
文章がどう変わるかが、議論されたことがあった。
結論は出たのかな。
僕は、体から、温度から離れた文章が増えたと思う。
よそよそしい、空回りする文が増えたと思う。
それまでそんな文は、
政府の文章か論文くらいのものだった。
それがいまや、仕事のメールすらそのようなものになっている。
肉筆時代は、文字だけだと冷たいから、
絵を添えたり飴を添えたりしたものなのにね。


勿論、あなたの文体が冷たく、
よそよそしいものならその限りではない。
僕は映画というものは、
人の体温を感じられなければ意味がないと考えている。

(たとえば感情を示さないAIだけ文字打ちで書いて、
人間の台詞だけ手書きで第一稿を書く、
なんてことは出来そうだ。
また、文字打ちの文章が冷たいという本能が働くのか、
ネットはスラングだらけである。
勿論ネットスラングはリアルワールドではしんどい)
posted by おおおかとしひこ at 11:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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