人によるかも知れないけれど、
僕は手書きのほうが原始的なことばが出てくる。
自分の脳や身体に直結した物言いになる。
だから短いコピーを書くとき、
台詞を書くときは、絶対に手書きで一発目を書く。
筆が走ってるときは、
ト書きを飛ばして台詞だけ書いて、
あとで絵のことを書き添えるぐらいだ。
それを、パソコンに文字おこしするときに、
冷静になって整えている。
原始的であることと、
洗練された表現は異なる。
洗練とはTPOをわきまえることだと思う。
どんな場面でも、
髪を振り乱して全裸でいてよい訳ではない。
しかし、洗練からは原始的な強い表現は生まれない。
お坊っちゃんには泥んこは無理なのだ。
だから、
まず野生で書いて、あとで服を着るべき所を着るようにしている。
このプロセスに、
一度手書きで全部書き、
文字おこししながら整えていく、
という僕の方法論は最適化されているように思える。
文字おこしのときに、
言わなくていい台詞を切ったり、
余計な段取りを省略したり、
説明不足のところは足していったりして、
清書第一稿がしあがるようになっている。
だから文字打ち第一稿は、
手書き第一稿と異なる原稿に既になっている。
裸で熱情を通し、
それを服を着ながら表現する感じに、
手書きの暴れ文字と、
一マス一文字に整然と整った活字は、
対比的な役割を果たすと考える。
書道を少しやれば分かるけど、
日本語は、一マス一文字に収まるようには書かない。
漢字は大きく、かなは少し小さめに書く。
「い」は横長だし、「し」は縦長だ。
日本語のフォントは、そのようなことを考えられて作られていない。
一マス一文字に収まるように作られたフォントだ。
(だから広告の文字打ちでは、
キャッチコピーなどの目立つ文章は、
すべて文字間を変えたり、漢字とかなの大きさを変えたりして、
より書道に近いニュアンスにしている。
丁寧なアートディレクターなら必ずやることだ)
英語のカリグラフィですら、
「office」のffiの部分は、ローマン体なら繋げて印字されるように、
デフォルトが設定されている。
英語の伝統的な文字の表記に、
一マス一文字原則が壊れる瞬間だ。
(英語ベースで開発されたwordは、カーニングがデフォルトだ。
だから文字数とマス数は合わないんだよね)
話がそれた。
ということで、
日本語の一マス一文字印字は、
無味乾燥だ。
それが公式的な、人前的なニュアンスになると思う。
特に明朝体は、
ネットやSNSがゴシック体を多用していることもあって、
とても公式的なニュアンスがある。
だから、
僕は第一稿を文字打ちから始めるのを推奨していない。
原稿用紙しかなかった時代、
ワープロの登場によって、
文章がどう変わるかが、議論されたことがあった。
結論は出たのかな。
僕は、体から、温度から離れた文章が増えたと思う。
よそよそしい、空回りする文が増えたと思う。
それまでそんな文は、
政府の文章か論文くらいのものだった。
それがいまや、仕事のメールすらそのようなものになっている。
肉筆時代は、文字だけだと冷たいから、
絵を添えたり飴を添えたりしたものなのにね。
勿論、あなたの文体が冷たく、
よそよそしいものならその限りではない。
僕は映画というものは、
人の体温を感じられなければ意味がないと考えている。
(たとえば感情を示さないAIだけ文字打ちで書いて、
人間の台詞だけ手書きで第一稿を書く、
なんてことは出来そうだ。
また、文字打ちの文章が冷たいという本能が働くのか、
ネットはスラングだらけである。
勿論ネットスラングはリアルワールドではしんどい)
2017年01月23日
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