原作の映画化をめぐるネットの議論のどこかで見たのだが、
「大体漫画の発売初週なんて本を手に取るだけで買わないし、
一方映画は初週興行で成績が決まるなんて変」
みたいな意見があって膝を打った。
紙媒体は、存在が永遠だ。
(僕らが生きている間ぐらいは持つ)
一方映画は、消えてなくなってしまうもの。
興行だって四週で終わるのがデフォルトである。
紙媒体はなくなることはない。
そこ(本屋または問屋)にあり続ける。
しかも連載前提だから、
初週どころか一年、数年単位で存在する。
だから、じっくり検討出来る。
面白そうと思っても、
いやいやまだまだ分からない、と買わないことのほうが多いかも知れない。
もし本が四週で消えてなくなるものならば、
漫画や小説は、
今とは違う売り方になるだろう。
紙媒体は永遠。
その存在が、
作品を信用することは、作者を信頼すること、
という前提を生む。
その作品を愛するとは、作者を愛することである。
買うという行為は、信用代である。
一方、映画の興行では、
本のような、作者に信用を醸成し、
その信頼代として1800円を払うことはまずない。
余程信頼出来る監督でないかぎり。
(スピルバーグとかスコセッシとか、
宮崎駿とか。新海誠の次回作はそう見られるだろう)
ある時期の邦画から、
そういう信頼代として入場料を取るよりも、
俳優の看板だけで興行をするやり方が増えたのではないか。
昔から歌舞伎では、
出演者が看板になる。
一枚目が主役、
二枚目がイケメンの脇役、
三枚目がコメディ役。
(現在も、二枚目三枚目は生きている言葉だ)
本のような作家への信頼代ではなく、
こちらの看板に金を払ってください、
というやり方になってしまったのである。
いや、そういう意味では、
一度も作者への信頼代として、映画は興行していなかったのかもしれない。
その信頼を作るには長い関係が必要で、
四週前提の興行スタイルでは、
売り抜けた方が効率がよく、
そういう意味では看板だけで興行するほうが合理的なのかも知れない。
下手したら作者すら看板の一部なのだ。
○○の実写化、なんてのは、
一枚目、二枚目、三枚目に続く、
四枚目程度の要素なのかも知れないわけだ。
僕はそれは間違っていると、ずっと思っている。
四週興行だけで終わるようでは、
定期的な「映画館への信頼」にならないからである。
まあ、チェーン店である大手系列と、
個人経営である単館では、
事情も違うかもだが。
単館(自分で配給作品を決める映画館)は今苦しんでいる。
僕が東京に出てきた二十年前に比べ、
単館は半分になったような気がする。
もうひとつ問題があって、
「映画の作者は誰か」という問題がある。
脚本監督を一人でやっていればその人なのだが、
脚本と監督が違う場合が難しい。
漫画デスノートの作者は大場つぐみか小畑健か。
うーんやっぱり大場つぐみだよね。
別の絵だったらヒットしなかったかも知れないけど。
漫画のような、原作と絵のバランスは、映画にはない。
脚本はどんどん監督が変えたりするし。
プロデューサーの力も強く、
最終編集権は監督にではなく、プロデューサーにあることも、
業界では常識だが、一般には知られていないことである。
そういう意味で、
映画の宣伝興行は、
「一枚目(主演)を作者とする」ような扱いをしている、
と言っても過言ではない。
見えてない人より、見えている人を信用しちゃうんだね。
そういう意味では三谷幸喜や宮崎駿は、
見えている人だから信頼されてるのかも知れない。
(漫画や小説は、見えている人が一人もいない媒体だ)
紙媒体では、作者への信頼を長い期間で作り上げ、
その信頼代として作品を買い、所有する。
映画は、消えてなくなってしまう。
手元に残らない。
消えてなくなってしまう映像を、
二時間スクリーンで見るだけだ。
そして四週でもう別の映画になってしまう。
レンタルには回るけど、だいぶあとだ。
そしてセルを買わない限り、手元に残らない。
そして作者はいまいち明確ではなく、
見えている人はキャストだ。
両者が同じストーリーを扱ったとしても、
同様の売り方、作品になるはずがない。
どちらかが完璧に合わせにいかないかぎり。
だから紙媒体の実写化は、
原理的に成功しない。
実写化があとだしである以上、
実写化は、原作ごえが要求されると僕は思う。
ドラマ「風魔の小次郎」は、
ある部分では原作ごえを果たした、
稀有な例に今やなってしまった。
その「作者」は、もっと認知されてもいいよなあしかし。
2017年01月25日
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