世の中は不可思議なことに満ちている。
意味のわからないことがたくさんある。
そこにひとつの筋道が立ったとき、
それはストーリーになる。
それは、
その不可思議が日常とかけ離れていればいるほど面白く、
その筋道が納得いくほど面白い。
たとえば、
「誕生日のパラドックス」という有名な数学の小話がある。
「一クラスの中で、誕生日が被らない確率は1/2を下回る。
従って、誕生日が同じやつがいる方の確率が高い」
というやつだ。
一見直感に反するので、
これが数学的に正しいと言われるととてもびっくりする。
つまり不可思議である。
筋道は数学的な証明が存在する。
(1から、被らない確率を引くとよい。
被らない確率=364/365 * 363/365 * …を繰り返すと、
20回前後で1/2を下回る。閏年は除く。
これは新聞紙を42回折ると月に届くという、
乗算爆発が直感に反する例のひとつである)
筋道とは、論理のことである。
これこれこういうわけで、
結論はこうだ、ということである。
で。
ストーリーというのは、
筋道がおかしければ、それは破綻した話だ。
不可思議がたいして不可思議でなければ、
それは地味な話だ(目玉がない)。
この条件に満たないジャンルがひとつだけあって、
それが怪談である。
幽霊とか不可思議な目玉だけあって、
それは謎なのだ、という筋道が破綻しているタイプである。
怪談はストーリーだろうか。
それを考えるためには、
「そのストーリーがなんのためにあるのか」
というそのストーリーの存在意義が必要だ。
どんなに筋道が通っていて、
どんなに常識はずれの面白い目玉があったとしても、
そのストーリーの存在意義がない、
つまり「面白かったけど、何も残らない。
すなわち、見る前と見たあとで、私たちの人生は何一つ変わらない」
では、ただ通りすぎるだけで、
永遠に消えてしまうのである。
ストーリーは紙ではない。時間だ。
紙は時間を停止させる道具のひとつだが、
ストーリーが紙に書いてあったとしても、
「ストーリーに付き合う」のは時間の要素である。
消えてなくなるものに存在意義がなかったら、
消えてなくなるだけである。
それが素晴らしく面白く、
他人に消えてなくなるには惜しいと思わせるものだけが残る。
それは、見た人に変化を与えるほどの、
存在意義をもったものだけだ。
それを、テーマという。
誕生日のパラドックスの存在意義は、
「直感と反する数学的事実がある
(直感は当てになるとは限らず、
何事も数学的な思考をするべきだ)」という教訓ないし警告である。
怪談の存在意義は、
「我々に不可知な出来事がある
(それは科学で解明されるかも知れないし、
解明されないかも知れないという不安。
これを縮めれば、世の中には不安という存在があるということ)」
ということを示し、世界を相対化することだと思う。
ストーリーとは、
不可思議に筋道を通す面白さのことである。
そしてそれが存在意義があれば、
必ず残るものになる。
勿論、筋道に無理があってはだめで、
美しい筋道であることが必須になる。
(恐らくだけど、リライトすると話がよれるのは、
この筋道が寄り道状態になるからではないかと考えている)
美しい筋道が、
考えもしなかった不可思議なことに、
すっと通ることが、面白いストーリーなのではないだろうか。
天狗やら妖怪やら心の闇は、不可思議なことのひとつだ。
殺人事件(動機やトリック)も、不可思議なことのひとつだ。
あの子の気持ちも、不可思議なことのひとつだ。
「あそこで起こったとんでもない事件」も、不可思議なことのひとつだ。
こういうものに、うまい筋道が通ったときだけ、
それは面白いストーリーになる。
言葉を変えて言うと、
「なにい?!」が「なるほど!」に変わる、
そこにストーリーが発生する。
そして、それがどういう存在意義であるかで、
人の記憶に共有される。
教訓や警告は、記憶に残りやすい。
だから昔話のほとんどは教訓や警告だ。
あなたのストーリーは、
結局どういう存在意義なんだ?
教訓や警告か。はたまた別のなにかか。
意味ない話を書いても、その時楽しくて終わりだ。
私たちは時を越えるだけのストーリーを書くべきだ。
(その時楽しければええやないか、と反論する立場もある)
2017年02月01日
この記事へのコメント
本筋と関係なくて恐縮ですが、月まで届かせるには42回折るのではないでしょうか。
Posted by パナマドン at 2017年02月02日 16:58
ご指摘ありがとうございます。直しておきました。
Posted by おおおかとしひこ at 2017年02月03日 13:11
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