概要(数行〜400字)を書こう。
そして本文(全体)を書こう。
そうしたら、また概要を書こう。
最初の概要と、あとの概要は、大抵異なる。
区別のため、
それぞれを概要1、本文1、概要2と呼ぶ。
概要1と2は、大抵異なる。
何故だろう。
それは、する前からすることの本質を分かることは出来ないからである。
やったあとに、これはこういうことだったのか、
と分かることが殆どだからだ。
(そうじゃなきゃ人生は面白くないよね)
やりながら分かることはたくさんある。
やる前には想像できてなかった大事なこと、
やる前以上に大事なことを、
やりながら発見したり言葉になったりということは、
たくさんある。
「やってみなけりゃ分からない」は、
想像力もないバカの発言だけれど、
人生というものは殆どやってみなけりゃ分からない世界ではある。
(それでも事前に想像して準備することの大切さが、
失われるということはない。バカは混同する)
想像していた以上のことに出会えないのなら、
執筆も楽しくない。
意外な方向に伸びるたのしさを味わったことのない書き手なんて、
いないと思う。
さて本題。
概要1は、概要2と異なる。
本文1を書いたことで、本質がより明らかになり、
より深くなり、より分かりやすくなったからだ。
(書こうと思っていたことと、書いたことがまるで異なることすらある。
書こうと思っていたことは、実は大して面白くなかったことかも知れないし、
書こうと思っていた面白いことが書けなかったので、
別のなにかを書いたということもある)
また、概要2のようにかっこよく本文1が出来てないことはとても多い。
分かったことと書かれたことには大抵解離がある。
さて、ここで問題。
概要1に合うように、本文2を書き直すべきか?
概要2に合うように、本文1を更に精度を上げて本文2へ進むべきか?
ここが分かれ道だ。
それには、概要1と概要2を、客観的に比べられる目が必要だ。
それが中々に難しいのである。
書いたばっかりの興奮があるから、絶対に概要2がよく見える。
自分の苦労を間違いだと思いたくない、
認知的不協和もある。
だから、本文1を全く見ずに、しばらく置けという経験則もあるくらいだ。
厄介なのは、概要3を思いついてしまうことである。
不安になったら、概要4も5も思いつくかもね。
さあ、一体どれが正しいんだろう?
正解を選ぶ方法は、実はないと僕は考えている。
直感が正しいとか、
受けるものを選ばずにやりたいものを選べとかも、
間違っていると僕は考えている。
(それは自分の無意識を説得する方法に過ぎない)
価値のあるものを選べ、というのが僕の今のところの指針だ。
誰にとって、という議論はおいといても、
面白く、かつ価値のあるものこそが、
物語の存在意義だと僕は考えている。
金になる価値もあるし、
金にはならないが、人類にとって新しい価値もある。
(思想とか発想とはそういうものかも知れない)
概要を書こう。
そして本文を書こう。
そしたら、また概要を書こう。
概要1と2は必ず違う。
どの概要に向かうかを決めて、
本文2をリライトしよう。
また概要3が出来るだろう。
そのうち、進むべき概要Xと、それに一致する本文Xに、
収束するだろう。
(複数の人による脚本打ち合わせの迷走は、
概要がそれぞれ異なることを主張して、
それらを全て含む本文を作ろうとする矛盾が、
生んでいると僕は考えている。
また、概要をN個示されて、その分本文をN回書き直すことで、
脚本家の精魂が尽きるという問題もある。
複数の脚本家が手掛けると、魂が違うため、
全く別物になっていって、最初に死んだ人の存在意義は、
ただすりつぶされた人ということになる)
2017年02月03日
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