2017年02月03日

概要と全体、そして概要

概要(数行〜400字)を書こう。
そして本文(全体)を書こう。
そうしたら、また概要を書こう。

最初の概要と、あとの概要は、大抵異なる。


区別のため、
それぞれを概要1、本文1、概要2と呼ぶ。

概要1と2は、大抵異なる。
何故だろう。

それは、する前からすることの本質を分かることは出来ないからである。
やったあとに、これはこういうことだったのか、
と分かることが殆どだからだ。
(そうじゃなきゃ人生は面白くないよね)

やりながら分かることはたくさんある。
やる前には想像できてなかった大事なこと、
やる前以上に大事なことを、
やりながら発見したり言葉になったりということは、
たくさんある。
「やってみなけりゃ分からない」は、
想像力もないバカの発言だけれど、
人生というものは殆どやってみなけりゃ分からない世界ではある。
(それでも事前に想像して準備することの大切さが、
失われるということはない。バカは混同する)

想像していた以上のことに出会えないのなら、
執筆も楽しくない。
意外な方向に伸びるたのしさを味わったことのない書き手なんて、
いないと思う。


さて本題。
概要1は、概要2と異なる。
本文1を書いたことで、本質がより明らかになり、
より深くなり、より分かりやすくなったからだ。
(書こうと思っていたことと、書いたことがまるで異なることすらある。
書こうと思っていたことは、実は大して面白くなかったことかも知れないし、
書こうと思っていた面白いことが書けなかったので、
別のなにかを書いたということもある)

また、概要2のようにかっこよく本文1が出来てないことはとても多い。
分かったことと書かれたことには大抵解離がある。


さて、ここで問題。

概要1に合うように、本文2を書き直すべきか?
概要2に合うように、本文1を更に精度を上げて本文2へ進むべきか?

ここが分かれ道だ。


それには、概要1と概要2を、客観的に比べられる目が必要だ。
それが中々に難しいのである。
書いたばっかりの興奮があるから、絶対に概要2がよく見える。
自分の苦労を間違いだと思いたくない、
認知的不協和もある。
だから、本文1を全く見ずに、しばらく置けという経験則もあるくらいだ。

厄介なのは、概要3を思いついてしまうことである。
不安になったら、概要4も5も思いつくかもね。
さあ、一体どれが正しいんだろう?


正解を選ぶ方法は、実はないと僕は考えている。
直感が正しいとか、
受けるものを選ばずにやりたいものを選べとかも、
間違っていると僕は考えている。
(それは自分の無意識を説得する方法に過ぎない)

価値のあるものを選べ、というのが僕の今のところの指針だ。
誰にとって、という議論はおいといても、
面白く、かつ価値のあるものこそが、
物語の存在意義だと僕は考えている。
金になる価値もあるし、
金にはならないが、人類にとって新しい価値もある。
(思想とか発想とはそういうものかも知れない)


概要を書こう。
そして本文を書こう。
そしたら、また概要を書こう。

概要1と2は必ず違う。
どの概要に向かうかを決めて、
本文2をリライトしよう。
また概要3が出来るだろう。

そのうち、進むべき概要Xと、それに一致する本文Xに、
収束するだろう。


(複数の人による脚本打ち合わせの迷走は、
概要がそれぞれ異なることを主張して、
それらを全て含む本文を作ろうとする矛盾が、
生んでいると僕は考えている。
また、概要をN個示されて、その分本文をN回書き直すことで、
脚本家の精魂が尽きるという問題もある。
複数の脚本家が手掛けると、魂が違うため、
全く別物になっていって、最初に死んだ人の存在意義は、
ただすりつぶされた人ということになる)
posted by おおおかとしひこ at 11:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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