前記事の最後のパートを書きながら思ったことを、
もう少し掘ってみる。
デジタルツールの一番良くないところは、
「それが消えてなくならないこと」だと考える。
たとえばそろばん。
そろはんは最初手で弾いて使うが、
上級者になるとそろばんは必要ない。
頭の中にそろばんが出来上がり、手を使わないようになる。
(時々手で架空のそろばんをはじく中間の人もいる)
つまりそろばんは消える。
たとえば剣。
究極の剣の達人は、剣がいらなくなるという。
身体の動きが剣術になり、
相手を斬らずとも殴って仕留めればよくなる。
剣術とは、究極的には体術になるのだ。
つまり剣は消える。
たとえば筆。
いろいろな筆があるのだろうが、
究極的には弘法は筆を選ばなくなるらしい。
筆では実感がないが、鉛筆程度なら僕はなんとかできると思う。
多くの「人の技能(後天的に獲得したもの)」というものは、
最終的にはその道具が消えるようになる。
「それを使うからできる」のではなく、
「それがなくても出来るように体を組み替えていく」
(目や手や脳も)のが、
能力獲得ということだからだ。
「その道具を使わなくても、別のことで何とかできる」
のが、能力といってもいいかも知れない。
デジタルは確かに人の能力を延長したが、
それなしでは生きられない人を大量生産してやいないか?
そういえば昔は、知識は本を見ずに何でも答えられることだった。
「身についている」かどうかが肝だった。
walking dictionaryなんてのはそういう意味だ。
でも今はなんでもググれるようになってしまい、
人は身一つで知識を持たなくなってしまった。
スマホネットなしで一か月すごせる?
もう無理なんじゃね。
なんか「マトリックス」で出て来た「ケーブル付き」の人だぜもう。
身一つで何でもできるようになることが、
能力を獲得することだ。
身一つで出来ないんなら、それは
「出来る人」って言わないと思う。
フォトショがうまい人は、最初から手先が器用で絵がうまい人だったりする。
フォトショをやって絵がうまくなった人はいない。
フォトショがうまくなるだけだ。
フォトショがなくなったら何も出来ない。
最初から絵が上手い人は、フォトショがなくてもなんとかする。
デジタルは0か1かと最初に言われたよね。
デジタルツールがなかったら0になっちゃう人が増えてやしないかなあ。
で、デジタルは結局、
「出来ない人」を量産し続けてる気がするのだ。
2017年02月10日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック