2017年02月10日

デジタルは人を幸せにしない:デジタルの道具はそろばんになれない

前記事の最後のパートを書きながら思ったことを、
もう少し掘ってみる。

デジタルツールの一番良くないところは、
「それが消えてなくならないこと」だと考える。


たとえばそろばん。
そろはんは最初手で弾いて使うが、
上級者になるとそろばんは必要ない。
頭の中にそろばんが出来上がり、手を使わないようになる。
(時々手で架空のそろばんをはじく中間の人もいる)
つまりそろばんは消える。

たとえば剣。
究極の剣の達人は、剣がいらなくなるという。
身体の動きが剣術になり、
相手を斬らずとも殴って仕留めればよくなる。
剣術とは、究極的には体術になるのだ。
つまり剣は消える。

たとえば筆。
いろいろな筆があるのだろうが、
究極的には弘法は筆を選ばなくなるらしい。
筆では実感がないが、鉛筆程度なら僕はなんとかできると思う。


多くの「人の技能(後天的に獲得したもの)」というものは、
最終的にはその道具が消えるようになる。

「それを使うからできる」のではなく、
「それがなくても出来るように体を組み替えていく」
(目や手や脳も)のが、
能力獲得ということだからだ。
「その道具を使わなくても、別のことで何とかできる」
のが、能力といってもいいかも知れない。


デジタルは確かに人の能力を延長したが、
それなしでは生きられない人を大量生産してやいないか?


そういえば昔は、知識は本を見ずに何でも答えられることだった。
「身についている」かどうかが肝だった。
walking dictionaryなんてのはそういう意味だ。
でも今はなんでもググれるようになってしまい、
人は身一つで知識を持たなくなってしまった。
スマホネットなしで一か月すごせる?
もう無理なんじゃね。
なんか「マトリックス」で出て来た「ケーブル付き」の人だぜもう。

身一つで何でもできるようになることが、
能力を獲得することだ。
身一つで出来ないんなら、それは
「出来る人」って言わないと思う。

フォトショがうまい人は、最初から手先が器用で絵がうまい人だったりする。
フォトショをやって絵がうまくなった人はいない。
フォトショがうまくなるだけだ。
フォトショがなくなったら何も出来ない。
最初から絵が上手い人は、フォトショがなくてもなんとかする。

デジタルは0か1かと最初に言われたよね。
デジタルツールがなかったら0になっちゃう人が増えてやしないかなあ。


で、デジタルは結局、
「出来ない人」を量産し続けてる気がするのだ。
posted by おおおかとしひこ at 14:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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