すべてはこういうことに尽きるのでは、
と最近思う。
意外性があればあるほど、人目をひく。
それが納得すれば「なるほど」と思う。
意外性が弱ければ地味で、
意外性だけで納得が弱ければ出落ちだ。
キャラクターの造形について、
たとえば書いてみる。
今造形中のキャラクターは、
能楽師の設定である。
二つ名を「百面師」。
百の仮面をもち、どんな役を演じることも出来る。
しかし「本当の自分」だけが分からない。
自分という役を演じるわけではないからだ。(←ここ意外性)
彼は幼少のころから転校が多かった。
地方を廻る能劇団の一家に生まれたからだ。
だから友達がいない。
仮面を被ることしか、彼にはなかったからだ。
(←ここ納得)
こういうもののペアが、
面白いストーリーを生むのではないだろうか、
ということだ。
たとえば起承転結。
転部で意外性のあることをして、
結部でなるほどねという落ちをつけることが、
四コマ漫画の基本であった。
たとえば冒頭の派手なシーン。
最初に意外性で引っ張ったら、
なるほどねという次へ繋がないと、
ただの出落ち終わりだ。
(僕はこれは上級者むけとして、あまり勧めていない)
なるほどね、が、
なあんだたいしたことねえな、
になったら、
意外性はハッタリに堕する。
(連載ものはこれを避けるために、
意外性意外性ばかり繋いで、破綻して終わることが多い)
いかになるほどね、を用意していても、
そこに至るまでに順当すぎて飽きてしまったら、
たどり着いてくれない。
難しいバランスだけど、
名作はこのバランスが取れているものを言うのではないかな。
今おそらく、
「新しい意外性と納得のペア」が求められている。
もう古くなってしまったが、
ツンデレというキャラクター造形は、
出た当時は新しいタイプであった。
「二人きりならデレデレするのに、
みんなの前だとツンツンする」という意外性
(好きならいつもデレデレするのではないか、
何故逆、という意外性)
に対して、
「みんなの前では恥ずかしいから」
という納得のペアがあるからいいのである。
みんなの前で見せる姿と、
自分の前だけで見せる姿は違うのだ、
しかも真逆、
という当時の「新しい意外性と納得の発見」が、
後世のテンプレになるほど人気になったわけだ。
(よく考えてみれば、
「昼間は淑女夜は娼婦」という中世からのテンプレもあったね)
古いのでは、
「普段は不良の癖に、捨て猫を拾ってしまう」テンプレがある。
これも、「意外とやさしい」という意外性と、
「彼は真の悪者ではなく、
周囲の環境でそうなってしまっただけなのだ」
という納得がペアになって、
はじめて感情移入に至るのではないか。
これが、
「単なる猫好きで、人は殺す」
というキャラクター造形もあり得るからである。
(これはこれで、人と猫を分けて考える、
おかしなやつ、という納得が存在するが)
意外性と納得は、
ペアである。
直感に反する意外なことが、なるほどね、
と腑に落ちると目から鱗が落ちる。
そのときに、たぶん私たちの心が動く。
意外性だけでも納得だけでも、
たぶんちょっと動いて元に戻るだけだ。
意外性と納得のうまいペアだけが、
人の心を元に戻せないところまで動かす。
おはなしとは、常にそうありたいものだ。
2017年02月11日
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