2017年02月13日

履歴書を否定する理由2

僕が履歴書を否定する理由は、
初心者が誤解しやすいからである。

一体、脚本を書く全作業量のうち、
履歴書が何%ぐらいだろうか?

僕は、3%ぐらいしか寄与しないと考えている。



脚本を書くのに最も大変なのは、
プロットだと思う。
本当にちゃんとしたプロットなら、
全作業量の70%ぐらいは労力を使うはずだ。

のこり30%は、実際の原稿執筆に使われる労力だ。
台詞やらト書きやら、実際の場面やらである。

のこり10%は絵作りで、
のこり15%ぐらいは台詞だと考える。
履歴書に使う労力を3%分だとして。
(あと2は雑費)


初心者は、履歴書さえ書けたら、
殆ど出来たも同然と誤解していることが多い。
なんなら、履歴書ができれば50%とか、70%とか出来たと、
勘違いしていやしないか。
本当は、その何十倍もの労力を、
かけなければならないのにだ。

履歴書は、基礎資料の一部に過ぎない。
実際に何が起こるのか、何をするのかのほうが、
どういう性格かとか、何が好みとかとかよりも遥かに重要だし、
遥かに思いつくのに手間かかかる。
その手間を知らずに履歴書だけつくって、
七割がた出来たなんて勘違いを生むのなら、
僕は履歴書なんて不要だと言ってもいいくらいだよ。


映画の中では、
キャラクターの占める割合よりも、
プロットの占める割合の方がはるかに大きいと僕は考える。
せいぜいリアクションが違う程度にしか、
キャラクターの違いは現れないのではないか。
それほど映画にとって、
ストーリーが大事だと思うのだ。

なぜなら、
映画はせいぜい二時間しか付き合わないものであり、
キャラクターは二時間程度で変化してしまうからである。

一方、漫画はそうではない。
ヒットすれば何十年も付き合うキャラクターだ。
(何十年も付き合わなくても、週刊連載ですら三か月は最低でもつきあう)
そのつきあい度合いは、漫画のほうが深くて濃い。
だから漫画の入門書では「まずはキャラクター」となるのも分るというものだ。

小説はどうか。
短編ならプロットや文体が大事ではないか。
長編ならキャラクターも大事になるだろう。

僕が、「映画は短編である」
とよくいう理由がお分かりであろうか。
短編というのは、長編漫画や長編小説に比べて、
という話なのである。

もし同等のキャラ:プロット比を考えるなら、
漫画なら読み切りや一巻完結程度の分量を想像すると、
いいかもしれない。
キャラや世界観も重要だけど、
題材や引き込みや展開や落ちの方が、遥かに重要だろう。



さらに脚本が抱える、現実的問題がある。

それは、どんな役を書いたとしても、
それは生身の俳優によって演じられる、という事実だ。

どんな履歴書を書いても、
それはその俳優に上書きされる運命にあるのである。
勿論、
上等な役者ならなるべく(彼が読み取れる範囲で)役作りして来るだろう。
しかしそこまで上等な役者が毎回揃うわけではない。
「人気だから」という理由で合わないキャスティングされている例は、
枚挙にいとまがないであろう。
どんな役をやっても同じ役しかできない芸能人は、
いっぱいいるよね。


だとするならば、
キャラづくりはある程度役者(と監督)に委ね、
脚本には「ストーリーそのもの」を書くべきだと、
僕は考えている。

キャラクターは脚本段階で詰めても、
たいして意味を持たないのだと。

(じゃ、そのストーリーって?
それが普段書いている、一言でとらえづらいものなわけだ)



履歴書はあまり意味がない。
3%程度の労力としては、意味がある。
それに7日かかったら、
あと226日ぐらいかかるかもだ。
posted by おおおかとしひこ at 13:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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