これは長年の疑問だった。
良くしようと思ってリライトをして、
一見良くなったと思えたはずなのに、
最終的にはそれが改善ではなく、
改悪になっていたと判明するのはなぜなのか。
これは、
「部分の改善は、全体の改善とは限らない」
と定式化することが出来る、
と最近思うようになった。
リライトをするとき、
やっぱり一部が気になるから、
書き直すのである。
あの表現、あの台詞、あの段取り。
分かりにくいものを分かりやすく。
更にグッと来るように。
だから、
リライトというのは、
「部分の改善」だと僕は思う。
その部分だけで見れば、改善することは出来る。
視野がその部分に限定している限り。
しかし作品を味わうということは、
その部分だけを見ることではない。
女を見るとき、手だけで評価しないだろう。
顔も性格も人生観も、全体の感じも、
これまでの軌跡も、全部トータルで見て、
(勿論加点部分は大きめに見て、
減点部分は小さめに見てあげて)
その女が一人の人間としていいかどうかを、
判断するだろう。
リライトは、
右手にネイルを塗って美しくしたから、
全体として改善になっているはずだ、
という思い込みに、
実に囚われやすいのである。
近代科学のシステム論は、
実際のところこのメカニズムを解き明かしていない。
「部分の改善はプラス要素なのだから、
少なくとも全体もその分プラスされるはずだ」
というプリミティブな思い込みに、
うまく反論する分かりやすい理論を持たないと考える。
回路設計を考えればわかる。
あるプロセッサを速くしたからといって、
そのプロセッサと別のプロセッサを繋ぐルートが遅いなら、
全体として改善になってないことぐらい、
すぐ分かるだろう。
結論は、「その改善に意味はない」か、
精々「その改善を意味のあるものにするためには、
もっと根本的な改善をしなければ効果がない」のはずである。
(これは都市部の交通網の渋滞がなぜ抜本的な解決が出来ないか、
という問いに似ている。
一本高速を作っても、そこが速くなるだけでその周辺が旧態依然ならば、
トータルで見てたいした改善にはならないのである。
長いこと工事してた山手通り新宿渋谷間は、
抜本的な改善には結局なってないよね)
ということで。
複雑なシステム(ストーリーは、
人間の考えうる最も複雑なシステムのひとつである)
を改善するためには、
「一番の欠点を見極め、
それを改善することを考える」
のがベストだと言うことになる。
つまりブスはネイルしてる暇があったら、
性格を直せ、という話なのだ。
あなたが一人でやるリライトも、
複数の人たちがケンケンガクガクでやるリライトも、
右手のネイルの話しか見えていないのではないか?
この作品は何を目指して、
どこにどういう形で着地するのが理想で、
その為にどういう構造になっていて、
理想にどのくらい到達できていて、
根本的には何を改善するべきか。
そういう本質的な議論をせず、
部分の改善で改善した気になってるから、
いつまでも、
最終的には改悪になるのではないだろうか。
当たり前だけど、
書いている途中にそれを見ることは出来ない。
全体がないからだ。
手しかない女のようなもので、
今は手を綺麗に書くしかない。
問題は、全体がロールアウトしたときだ。
全体が全体としてない限り、
部分の改善は全体の改善かどうか、
評価出来ないのである。
間違ったリライトを、してやしないか。
右手のネイルを直して、
カバンを替えて、
朝早起きしたとしても、
全体的に残念な女は、改善しない。
リライトの敵はおそらく、
「最小の手間で最大の効果をあげたい」という怠け心と、
「抜本的改革は怖い」という恐怖心ではないかと考える。
なお女の人が可愛そうなので、
文中の女は全部男に書き換えても構わない。
2017年02月14日
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