2017年02月14日

何故リライトすると良くなくなることが多いのか

これは長年の疑問だった。
良くしようと思ってリライトをして、
一見良くなったと思えたはずなのに、
最終的にはそれが改善ではなく、
改悪になっていたと判明するのはなぜなのか。

これは、
「部分の改善は、全体の改善とは限らない」
と定式化することが出来る、
と最近思うようになった。


リライトをするとき、
やっぱり一部が気になるから、
書き直すのである。

あの表現、あの台詞、あの段取り。
分かりにくいものを分かりやすく。
更にグッと来るように。

だから、
リライトというのは、
「部分の改善」だと僕は思う。

その部分だけで見れば、改善することは出来る。
視野がその部分に限定している限り。


しかし作品を味わうということは、
その部分だけを見ることではない。
女を見るとき、手だけで評価しないだろう。
顔も性格も人生観も、全体の感じも、
これまでの軌跡も、全部トータルで見て、
(勿論加点部分は大きめに見て、
減点部分は小さめに見てあげて)
その女が一人の人間としていいかどうかを、
判断するだろう。

リライトは、
右手にネイルを塗って美しくしたから、
全体として改善になっているはずだ、
という思い込みに、
実に囚われやすいのである。



近代科学のシステム論は、
実際のところこのメカニズムを解き明かしていない。
「部分の改善はプラス要素なのだから、
少なくとも全体もその分プラスされるはずだ」
というプリミティブな思い込みに、
うまく反論する分かりやすい理論を持たないと考える。

回路設計を考えればわかる。
あるプロセッサを速くしたからといって、
そのプロセッサと別のプロセッサを繋ぐルートが遅いなら、
全体として改善になってないことぐらい、
すぐ分かるだろう。
結論は、「その改善に意味はない」か、
精々「その改善を意味のあるものにするためには、
もっと根本的な改善をしなければ効果がない」のはずである。
(これは都市部の交通網の渋滞がなぜ抜本的な解決が出来ないか、
という問いに似ている。
一本高速を作っても、そこが速くなるだけでその周辺が旧態依然ならば、
トータルで見てたいした改善にはならないのである。
長いこと工事してた山手通り新宿渋谷間は、
抜本的な改善には結局なってないよね)


ということで。

複雑なシステム(ストーリーは、
人間の考えうる最も複雑なシステムのひとつである)
を改善するためには、
「一番の欠点を見極め、
それを改善することを考える」
のがベストだと言うことになる。

つまりブスはネイルしてる暇があったら、
性格を直せ、という話なのだ。


あなたが一人でやるリライトも、
複数の人たちがケンケンガクガクでやるリライトも、
右手のネイルの話しか見えていないのではないか?

この作品は何を目指して、
どこにどういう形で着地するのが理想で、
その為にどういう構造になっていて、
理想にどのくらい到達できていて、
根本的には何を改善するべきか。

そういう本質的な議論をせず、
部分の改善で改善した気になってるから、
いつまでも、
最終的には改悪になるのではないだろうか。


当たり前だけど、
書いている途中にそれを見ることは出来ない。
全体がないからだ。
手しかない女のようなもので、
今は手を綺麗に書くしかない。
問題は、全体がロールアウトしたときだ。

全体が全体としてない限り、
部分の改善は全体の改善かどうか、
評価出来ないのである。



間違ったリライトを、してやしないか。

右手のネイルを直して、
カバンを替えて、
朝早起きしたとしても、
全体的に残念な女は、改善しない。

リライトの敵はおそらく、
「最小の手間で最大の効果をあげたい」という怠け心と、
「抜本的改革は怖い」という恐怖心ではないかと考える。

なお女の人が可愛そうなので、
文中の女は全部男に書き換えても構わない。
posted by おおおかとしひこ at 13:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック