説明の話、まだ続けます。
説明とは伝えること。
そう思っているのだとしたら、
あなたはストーリーテラー失格だ。
説明の目的は、伝えることではない。
説明の目的は、楽しませることである。
そもそも、
説明の目的を、
「説明すべき内容を、
正しく十分に伝えること」
と勘違いしているから、
あなたは説明が下手なのだ。
だから、
「どう説明すれば分かってくれるのだろう」
と悩むのである。
それは、根本の目的が間違っている。
分からせることが説明の目的ではない。
現実世界ではそうかも知れないが、
少なくともフィクションの世界では違う。
現実世界の説明と、
フィクションの世界の説明は、
本質的に違うものなのだ。
「分かってもらうこと」を説明の目的にしてしまうと、
あれも言わなきゃ、
これも言わなきゃ、と、
全体像を描像してしまいがちである。
あれを説明するからには、
これも説明しなきゃ、と、
漏れや抜けの確認もしなければならない。
(不動産や保険の契約書は、
だから盛れ抜けの例外列挙だらけで、
ちっとも面白くない)
勿論全体像を一発で表現するような説明があったり、
そこに落とし込む方法があればラッキーだが、
説明の99%はそうではない。
だから世の中の説明は、詰まらないのである。
盛れ抜け確認作業になってしまうからである。
盛れ抜け確認済みの、
なんだか長いものを見させられて、
何がオモロイのや。
説明の目的が伝えることであるかぎり、
評価基準は、伝わったか/伝わらないか、
でしかない。
そうではない。
説明の評価基準は、オモロイか/オモロクないかである。
説明の目的は、伝えることではく、
楽しませることである。
下手くそな人は、
説明の内容を弄らずに、
説明の「仕方」だけでやろうとする。
漫才師の人なら面白く説明してくれるのではないか、
と浅はかに思い、
その辺で、お笑い芸人の無駄遣いの説明CMが、
流れまくっている。
彼らは、「とある原稿を、なんでも面白く言える人」ではない。
彼らは、そもそも「面白い内容を言う人」である。
つまり、説明の仕方ではく、
そもそも説明の内容が面白くない限り、
説明は面白くならないのだ。
説明の下手な人の根本的間違いは、ここなのだ。
説明の仕方で誤魔化すことは出来ない。
笑い以外でもそうだ。
オシャレにやる、かっこよくやる、
素敵な世界観でやる、トリック撮影でやる、
かわいくやる、有名人がやる、
映像的には色々な方法があるけれど、
それは根本的解決にはなっていない。
説明の内容が詰まらないのを、
ガワで誤魔化しているに過ぎないのである。
では、
面白い説明とはどういうものか。
まず最初に興味を持たせて、
説明の世界に引きずり込み、
その興味を持続させたまま、
その先を知りたくなるように、
次々と展開していくことである。
最初の興味が失われてきたら、
別の方向に興味を誘導し、
強力に引っ張り、
またまた説明を聞いていることが、
次々に知見を広げることになり、
説明を聞き続けることが快感になるようなものだ。
で、
最後に締めの言葉で、
全体を統括し、記憶に残るようになり、
最初の興味が結論と結びつけられて記憶される。
あれ?
これって物語の構造と同じじゃね?
そうなのだ。
説明は、物語なのである。
説明が面白いということは、
ストーリーテリングが上手だということに、
他ならないのである。
(この文章もそのように書いているつもりだ。
ついでに日々更新している脚本論もだ。
僕は説明するふりをして、物語を書いているかもしれない)
この断言はいささか無理があるかも知れない。
説明が物語だと言っても、
主人公がいるわけじゃなし、
内的動機や目的やコンフリクトがあるわけではない。
しかし、焦点とその誘導、ターニングポイントとテーマ、
というあたりの構造が、
物語と酷似している、
とだけは断言しておこう。
ということで、
面白い説明は、
話が面白くなるように、
内容を変えちゃっていい。
説明の目的が伝えることだと考えていると、
説明の内容自体を変形させることに、
発想が及ばない。
それじゃ伝えるべきものが…と慌ててしまうからである。
そもそも、
創作の目的は、
「あなたが作り上げた世界を、
隅から隅まで伝えること」だろうか?
そう思っている限り、
目的は伝えることになってしまう。
「誤解されようが何されようが、
楽しませたら勝ち」と考え方を変えると、
新しい伝え方が生まれてくるのだ。
たとえ100%伝わることはなくとも、
50%伝わればいいとか、
残り50%は誤解されたままで構わないとか、
伝えることの目標値を下げて、
(だって100%はないから。
たとえ詳細なwikiですら、それは無理だ。
どんな分厚い百科辞典でも、
あなたは「まだ全部じゃない」って言うだろう。
そもそもそれは、100はないのだ、ということを悟らなければならない)
残りは楽しませることを考えてみるといい。
僕が説明によく使うのは、
象を描写することだ。
象を「伝えること」を考えてしまうと、
体が大きい、鼻が長い、耳が巨大、牙がある、
皮膚が固い、重い、草食、群れを作る、
アフリカやインドに住む、
などなど、説明を盛れ抜け確認しながら列挙しなければならない。
しかしこれを見れば、「象はやさしい」という抜けに気づき、
また足したくなってしまう。
あれもこれも、と説明は増え、
どれを残してどれを切れば適切なのか、
という、「説明の迷宮」にはまってしまうわけだ。
ところが、目的を「楽しませること」にすると、
「象は異国の動物でね、とても大きくて鼻が長いんだ」
だけに削ることが可能だ。
え、これだけ?
そう。あとは「想像で補って、楽しんでください」
というタイプの説明の仕方である。
「伝えること」を目的にする限り、
あなたの中のものを吐き出すことばかり考えてしまう。
相手が、頭のなかでそれを再構築して、
初めて共有されるのだ、
というところまで考えが及ばない。
「楽しませること」を説明の目的にすると、
相手が頭のなかで再構築している様を想像できる。
その構築が面白いように、
こちらから出す情報をコントロールすることが、
ほんとうの説明なのである。
象の例は、
相手が想像して掻き立てられるだけの、
「間」を残しているわけだ。
巨大で鼻が長い?
耳はどうなの?目は?
四つ足?立ってるの?
群れは作るのだろうか?
鼻が長いとどうなるんだ?
ぶつからないか?
こうやって次々に想像することはとても楽しい。
それを相手に委ねることが、
説明を楽しくする方法なのである。
つまり。
説明がオモロイのは、
作者が楽しいのではなく、
相手が楽しいのである。
楽しい、オモロイ、は、
笑いだけとは限らない。
知的好奇心も、立派な面白さだ。
このブログは、
脚本やらストーリーの謎を知りたい人向けに書いている。
そういう人たちに面白くなるように、
最初にぶちかまして、
物語的な構造で話しているわけだ。
楽しんでいただけたかなあ。
あなたが説明が下手なのは、
伝えようとしてるからだ。
フィクションは、伝えるのが目的ではない。
遊んでもらうのが目的である。
(遊びとは、楽しいことだけじゃなくて、
怖いこととか感銘を受けるとか、
シリアスなことも含むよ)
2017年02月16日
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たまに出てくる実際の作品での例えが非常にわかりやすく面白いです。
(自分はガンダム好きなんでガンダムの話は特に)
自分の知らない知識が得られるから
読んでて面白いというだけではなく
文章の構造自体もそういう構造にしているんだなと。
人を楽しませてかつ説明もわかりやすい…
いやはや、本当に参考になります。
たとえ話は、
「違う物語の間に似た構造を見つける」
ということなので、これが上手な人は、
話がうまい可能性があります。
剣の達人は剣を持たなくとも、
動けば全て剣になる、というのが理想で、
ストーリーテラーが口を開けばなんでもストーリーになっている、
というのが理想かなあ。