2017年02月17日

主張すること

表現は、すべからく主張である。
広く、深く刺さる表現は、
「今日私は〇〇して、とてもよかったです」
という情報や報告のレベルではない。
何かしらの主張を必ず含む。



では、どんな主張がよいのか。
どんな主張でもよいのか。

簡単に考えられることは、
「受け入れられやすい主張」と「受け入れがたい主張」があることだ。
「分かりやすい主張」と「分かりにくい主張」もある。
これらは重なり合う部分もあるけど、違う概念だ。
分かりにくいことは、分りやすく表現を変えられる可能性もある。

では、受け入れられやすく、分りやすい主張なら、OKか。
僕はさらに、
「平凡な主張」と「意外な主張」があると考えている。

世の中は星の数ほどの主張であふれている。
平凡な主張は、流されていく。埋もれる。
あるいは、もっと説得力のある強力な主張(王道)にかき消される。

意外な主張は、それだけで目立つ。
だけど、それが受け入れがたく分りにくく、
しかも有用でないならば、ただの目立ちたがりだ。
時間を無駄にしたと、恨みすら買うだろう。

もしその意外な主張が、
最初は受け入れがたく、分りにくかったとしても、
それが有用で、説得力があるのなら、
それは目立ち、広がってゆく。
あとは受け入れやすく、分りやすいように整えてあげればいい話だ
(シュガーコートという)。


つまり、主張を巡る評価軸は5つある。

受け入れやすいか/受け入れがたいか
分かりやすいか/分かりにくいか
平凡か/意外か
有用か/無用か
説得力があるか/ないか

これらは、主張の内容とも主張の仕方とも関係している。


さて、物語というのは論文ではない。
あることを主張することが最終目的ではない。
楽しませることが目的だ。

しかし終わったあと、
成程という納得がのこらなければならない。
流れて消えてしまうものは、残らないからである。
(その残るものこそがテーマというものである。
残ったもので物語は記憶される。
しかもテーマは明示でなく暗示である)

つまり物語というものは、
楽しませているうちにいつの間にか、
主張が完成しているべきなのだ。

物語は、主張が目的ではない。
面白さが優先だ。
だから計画通りの主張に落ちるかは、誰も分らない。

書いてみて、
それが面白いのかどうか、
それが主張として評価できるのか、
一発で完成しているとは限らない。

だから、何度も書き直して、
完成度を上げていくしかないのである。
また、「面白いか」という評価軸には、
平凡/意外という軸や、
分りやすい/分かりにくいということが関係してくる。
だから一筋縄にはいかないのである。



あなたは何を主張しようとしたのか。
結果的に、あなたは何を主張するものを作ったのか。
その主張に、その物語は無駄のない最適な形をしているのか。
誰もそのことの妥当性はわからない。
作者だけが、最も冷静に見ているべきである。
posted by おおおかとしひこ at 17:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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