表現は、すべからく主張である。
広く、深く刺さる表現は、
「今日私は〇〇して、とてもよかったです」
という情報や報告のレベルではない。
何かしらの主張を必ず含む。
では、どんな主張がよいのか。
どんな主張でもよいのか。
簡単に考えられることは、
「受け入れられやすい主張」と「受け入れがたい主張」があることだ。
「分かりやすい主張」と「分かりにくい主張」もある。
これらは重なり合う部分もあるけど、違う概念だ。
分かりにくいことは、分りやすく表現を変えられる可能性もある。
では、受け入れられやすく、分りやすい主張なら、OKか。
僕はさらに、
「平凡な主張」と「意外な主張」があると考えている。
世の中は星の数ほどの主張であふれている。
平凡な主張は、流されていく。埋もれる。
あるいは、もっと説得力のある強力な主張(王道)にかき消される。
意外な主張は、それだけで目立つ。
だけど、それが受け入れがたく分りにくく、
しかも有用でないならば、ただの目立ちたがりだ。
時間を無駄にしたと、恨みすら買うだろう。
もしその意外な主張が、
最初は受け入れがたく、分りにくかったとしても、
それが有用で、説得力があるのなら、
それは目立ち、広がってゆく。
あとは受け入れやすく、分りやすいように整えてあげればいい話だ
(シュガーコートという)。
つまり、主張を巡る評価軸は5つある。
受け入れやすいか/受け入れがたいか
分かりやすいか/分かりにくいか
平凡か/意外か
有用か/無用か
説得力があるか/ないか
これらは、主張の内容とも主張の仕方とも関係している。
さて、物語というのは論文ではない。
あることを主張することが最終目的ではない。
楽しませることが目的だ。
しかし終わったあと、
成程という納得がのこらなければならない。
流れて消えてしまうものは、残らないからである。
(その残るものこそがテーマというものである。
残ったもので物語は記憶される。
しかもテーマは明示でなく暗示である)
つまり物語というものは、
楽しませているうちにいつの間にか、
主張が完成しているべきなのだ。
物語は、主張が目的ではない。
面白さが優先だ。
だから計画通りの主張に落ちるかは、誰も分らない。
書いてみて、
それが面白いのかどうか、
それが主張として評価できるのか、
一発で完成しているとは限らない。
だから、何度も書き直して、
完成度を上げていくしかないのである。
また、「面白いか」という評価軸には、
平凡/意外という軸や、
分りやすい/分かりにくいということが関係してくる。
だから一筋縄にはいかないのである。
あなたは何を主張しようとしたのか。
結果的に、あなたは何を主張するものを作ったのか。
その主張に、その物語は無駄のない最適な形をしているのか。
誰もそのことの妥当性はわからない。
作者だけが、最も冷静に見ているべきである。
2017年02月17日
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