ストーリーを進める上で、
どうしても克服しなければならないものがある。
その克服こそが成長でありカタルシスになる。
そしてそれは、
そのキャラクターにとって、
最も辛いことであることが多い。
そうじゃないと面白くないからね。
気をつけるべきは、
「そのキャラクターにとって最も辛いこと」であって、
「あなたにとって最も辛いこと」であってはならないことである。
登場人物とあなた自身を同一視しないこと。
これは再三警告していることである。
映画シナリオというのは三人称であり、
誰か他の人に感情移入することであり、
あなたに感情移入してもらうことではない。
さて、
自分と登場人物を同一視することの具体に、
「登場人物の欠点を、
自分のものと同じにしてしまう」
があるわけだ。
自分の分身みたいな気持ちになるし、
思い入れも深くそのキャラクターを愛せるから、
ついやってしまう誤りである。
何故誤りか。
「そのキャラクターの欠点の克服」という、
ボトムポイントが書けなくなってしまうからだ。
ボトムポイントは、一種の死である。
その人物の全てを尽くしてもなお、
どうしようも事態を進められない状況のことである。
進めるには、自分が変わるしかない。
それは客観的な状況だからこそ、
そして最終的目的に動機が強いほど、
その人物は自分が変わろうとする。
ここがドラマチックだからこそ、
その人物の成長がドラマチックなのである。
そして、ドラマチックにしたければしたいほど、
その人物にとって、
一番辛いものの克服になるはずだ。
つまり、ボトムポイントからのリバーサル
(逆転劇)は、
最も辛い所から、変化して生まれ変わる、
最も内面のドラマになる部分である。
そのドラマを想定して最初に欠点を仕込んでおくのが、
セオリーというものである。
本題。
作者の欠点を、その人物の欠点にしてしまうと、
あなたはその先を書けなくなる。
だってあなたがその欠点を、克服してないからである。
自分にできもしないことが、
そのキャラクターに出来るはずがない。
正確に言えば、
そのキャラクターの欠点克服は、
嘘臭い、願望の欠点克服ドラマになってしまう可能性が高い。
だってあなたが本当のその欠点克服を、
知らないから、想像で書くしかないからだ。
一番その人物の内面の柔らかい部分に嘘があると、
その物語は軸足がなくなってしまうと思う。
「どうせリアルなキャラクターが作れないんだから、
自分をモデルに書けばいいんだ」
と教える方法論に僕は反対だ。
そのキャラクターと自分の距離を見失うと思うんだ。
肝心の内面の一番深いドラマを放棄するのなら、
話は別だが。
三人称の物語は、
他人の物語である。
他人が、その人の明らかな欠点
(本人だけが自覚してないかも知れない)
を、克服するドラマの面白さが、
最終的な結論へ繋がっていくはずだ。
それは他人のことなのに、
いつの間にか「自分にも同じ部分がある」と思えて、
肩入れしてしまうのが感情移入である。
あなた自身と、その人物と、
自分にも同じ部分がある部分とを、
分けて考えなければいけない。
たとえば。
「勇気がない主人公が、
勇気を出して好きな子に告白する」
という場面を書くとしよう。
ラブストーリーのハイライト部分になる大事な場面だ。
これを、
勇気のない自信のない作者が書くと、
自分の内面を勇気を出して言うことで精一杯で、
何故だか相手が主人公を受け入れる、
というおかしな場面になってしまうのである。
普通に見たら、オイオイその程度で勇気とか言ってんじゃねえよ、
勇気ってのはもっと○○することだろ、
と突っ込める場面でも、
作者は自分の精一杯をしたのだから、
それで成功だと勘違いしてしまうわけである。
こうして、間違った告白→即OKなんてな、
陳腐なドラマが量産されていく。
実際には、それまでの積み上げやらが、
女を口説くには大事なはずで、
告白なんて最後のひとおしに過ぎないはずだ。
なのにその積み上げなしに、
「内面の欠点を解消した一世一代のドラマ」を描いたつもりになってしまうから、
その場面はリアリティーがなくなるのである。
告白の場面は、
最も人気のあるハイライトであるが、
最も書くのは難しいもののひとつだ。
何故なら、たいていは勇気のない人が脚本を書いていて、
自分の精一杯までしか書けないからだ。
どうすればいいのか。
自分の欠点でないものを、
キャラクターに背負わせることだ。
そうすれば、
「まだこの程度では克服になっていない」と、
判断することが出来るからである。
告白の例で言えば、
ヒロインに「あなたの事情は分かったけど、
それと私とは関係がない」と言わせることも出来るし、
「その程度じゃ足りないから、
ここの崖から飛び降りて」と言わせることも出来るだろうね。
作者が一杯一杯なら、そう言わせる客観性すら、
一杯一杯で見えてないわけなのである。
勿論これはメアリースーの温床だ。
ヒロインに「よく勇気を出して言ってくれたわ。
実は私も好き」と、
キスをさせる間違った(ご都合の)展開になっていくだろうね。
あなたは人間である。
色々な欠点を抱えているし、
欠点のいない人間はいない。
登場人物も人間で、欠点のいない人間はいない。
欠点には色々なものがある。
何もあなたと同じ欠点を背負わせなくていい。
もっと自由に、
欠点とその克服について、
研究するべきである。
その無研究が、安易な「自分と同じ欠点の人物」を生み出し、
嘘臭いドラマチックや、
書けなくなって放置を、
生むのではないだろうか。
僕はこれを防ぐために、
「5年前(または10年前)の自分を基準にせよ」
なんて言うことがある。
その時の自分が何かを克服して来ていれば、
それならリアルに書けるだろうからだ。
観客や読者は作者より年下、
という構図は、実はこういうことではないか、
とちょっと考えている。
試練は、最も辛いものが来るべきだ。
だから物語は面白くなるのである。
たとえば原作風魔の聖剣編で、
飛鳥武蔵に訪れた最大の試練は、
幻夢氷翔剣に現れた、愛しき絵里奈の幻影であった。
(対雷光剣戦の聖剣戦争本番では、
これ以上の試練が武蔵になかったので、
本番のバトルは茶番だったと、
僕は今でも考えている)
2017年02月20日
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