2017年02月24日

名場面と引きになる場面は違う

予告編に使われるのは、引きの強い場面。
名場面は、見てはじめて意味がわかり、
その場面を見るだけでその意味を噛み締められる場面。

つまり引きの強い場面は、
それを見る前に強い絵。

名場面は、
それを見たあとに強い絵。

二つの絵は、違う性質だ。
混同されている可能性がある。


あなたが書きはじめる前に名場面だと思っていることと、
書き終えたあとに名場面だと思っていることは、
違う場面になる可能性が高い。

見る人が引きが強い場面を好んで見たとしても、
最後に覚えている名場面は、
違う場面である可能性も高い。


それなのに、
なぜ映画を一枚絵や名場面で語りたがるかというと、
「私たちは、静止画を頭のなかで操作して考える」
からではないかと考えている。


映画は流れである。
ストーリーも流れである。
それを一枚絵で象徴し、イコン化することも可能だ。

だが、
それで映画を把握した、と思うのは間違いなのだ。


引きの強い場面だけを並べても、
その映画を語ったことにならない。
名場面だけを並べても、
その映画を見ない状態で引かれるとも思えない。



「ララランド」のポスタービジュアルがひどい。
すごいという噂だけが先行していて、
ポスタービジュアルで見ようという気をなくしてしまう。
宣伝部は、こうしたことを何も理解していないのではなかろうか。

映画は時代のイコンになるべきだ。
60年代にもあったような平凡なポスタービジュアルが、
その映画のイコンになっていたら、その映画は平凡だ。
もしポスタービジュアルがその映画を表現できていないなら、
ポスタービジュアルチームは無能である。

そして僕が言いたいのは、
最近まったく引かれるポスタービジュアルがないことである。
一体どうなってるのだろう。

宣伝部が無能なのか、
映画が行き詰まっているのか。
7:3ぐらいじゃないかと僕は考えているのだが。



映画を場面でとらえるやり方は、
頭のなかで発生しやすく、
イメージがわきやすい。
しかしその静止画は、二種類あることに気づくべきである。
「本質」を、
見る前からとらえるか、見たあとにとらえたものか。

世紀の糞ビジュアル、
「いけちゃんとぼく」の宣伝ポスターは、
後者であり、完全ネタバレなので、
僕は激怒したし今でも激怒している。
posted by おおおかとしひこ at 15:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック