予告編に使われるのは、引きの強い場面。
名場面は、見てはじめて意味がわかり、
その場面を見るだけでその意味を噛み締められる場面。
つまり引きの強い場面は、
それを見る前に強い絵。
名場面は、
それを見たあとに強い絵。
二つの絵は、違う性質だ。
混同されている可能性がある。
あなたが書きはじめる前に名場面だと思っていることと、
書き終えたあとに名場面だと思っていることは、
違う場面になる可能性が高い。
見る人が引きが強い場面を好んで見たとしても、
最後に覚えている名場面は、
違う場面である可能性も高い。
それなのに、
なぜ映画を一枚絵や名場面で語りたがるかというと、
「私たちは、静止画を頭のなかで操作して考える」
からではないかと考えている。
映画は流れである。
ストーリーも流れである。
それを一枚絵で象徴し、イコン化することも可能だ。
だが、
それで映画を把握した、と思うのは間違いなのだ。
引きの強い場面だけを並べても、
その映画を語ったことにならない。
名場面だけを並べても、
その映画を見ない状態で引かれるとも思えない。
「ララランド」のポスタービジュアルがひどい。
すごいという噂だけが先行していて、
ポスタービジュアルで見ようという気をなくしてしまう。
宣伝部は、こうしたことを何も理解していないのではなかろうか。
映画は時代のイコンになるべきだ。
60年代にもあったような平凡なポスタービジュアルが、
その映画のイコンになっていたら、その映画は平凡だ。
もしポスタービジュアルがその映画を表現できていないなら、
ポスタービジュアルチームは無能である。
そして僕が言いたいのは、
最近まったく引かれるポスタービジュアルがないことである。
一体どうなってるのだろう。
宣伝部が無能なのか、
映画が行き詰まっているのか。
7:3ぐらいじゃないかと僕は考えているのだが。
映画を場面でとらえるやり方は、
頭のなかで発生しやすく、
イメージがわきやすい。
しかしその静止画は、二種類あることに気づくべきである。
「本質」を、
見る前からとらえるか、見たあとにとらえたものか。
世紀の糞ビジュアル、
「いけちゃんとぼく」の宣伝ポスターは、
後者であり、完全ネタバレなので、
僕は激怒したし今でも激怒している。
2017年02月24日
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