・設定を詰めたら、話になると思っている。
・キャラが勝手に動き出したら、話になると思っている。
・主人公が誰かに助けられるご都合主義。
お話とは、
問題とその解決である。
それを解決する人を主人公という。
したがって、
設定やキャラクターをいかに詳細に詰めて、
魅力的で勝手に妄想が膨らむようにしても、
お話は出来ないのである。
設定やキャラクターを作れば、
「世界」は出来る。
ディズニーランドを作るのと同じである。
ディズニーランドはお話しではない。
場である。
車で言えば、車体やエンジンや燃料や、
乗るメンバーを決めたことと同じだ。
お話とは、目的地とそこまでの道のりのことだ。
初心者は、設定に懲りたがる。
キャラクターに懲りたがる。
それは、お話を作っているのではなく、
世界を作っているだけなのだ。
お話と世界は、分離できる。
車とメンバーと目的地のたとえでいえば、
それぞれは分離できる。
つまり、交換可能だ。
車を変えて、同じメンバーと目的地に行くことも出来る。
メンバーを変えて、同じ車で同じ目的地に行くことも出来る。
目的地を変えて、同じ車とメンバーで旅をすることも出来る。
この中で、お話が変わってしまうのは、
目的地(とそこまでの道のり)が違うときだけだ。
メンバーが違うと別の話に見えるけど、
目的地とメンバーの役割が変わらないなら、
それは同じ話だと、(乱暴に)言っても構わないと思う。
(キャラクターとストーリーは絡み合って存在するから、
これはとても乱暴に俯瞰して見ている)
どんな車でも、どんなメンバーでも、
同じ目的地と同じ道のりならば、
それは同じ話をしていることと同じである。
出来るなら、その話をより面白くするような、
車とメンバーであることがベストなだけである。
さて、三番目の話。
その車のハンドルを握る人が主人公である。
ストーリーとは問題の解決であり、
その人がそれを解決しようと思いたって、
実際に解決へのりだし、
ああでもないこうでもないと試行錯誤し、
ついには解決に結びつくことが、
ストーリーである。
主体は主人公である。
物語は動詞である、と僕は言う。
その動詞の主語は、主人公である。
車とメンバーのたとえでいうと、
ハンドルを握る人が主人公である。
主人公は助手席に座ったり、
後部座席に座らせてはならない。
助手席や後部座席の人の意見で、
ルートを変えたり、休憩を入れたり、
そもそも目的地が変わることもあるけれど、
ハンドルを握る人が、最終的にそれを決定する。
つまりドライバーの責任があるということである。
主人公は問題解決の、動機がなければならないし、
問題解決のスキルがなければならないし、
問題解決の過程で起こることに責任を持たなければならない。
(自分一人ならばどうとでもなるけれど、
メンバーの命を預かっているのであるよ)
その上で、リスクを承知で賭けに出たり、
途中でいやになって逃げ出したり、
考えが足らずに失敗しても構わない。
それはあくまで旅の途中であった出来事に過ぎない。
最終的に目的地につけばいいのだ。
初心者は、ドライバーを書かずに、
助手席や後部座席を書きたがる。
それはまだ、親の庇護のもとにいる子供だからではないか。
物理的な立場じゃなくて、精神の話だ。
そもそもお話を書く目的が、
現実逃避なのだから仕方がないかも知れない。
しかし他人の無責任な現実逃避なんて、
誰もみたくないと冷静に思えばよいだろう。
私たちが見たいのは、助手席でぬくぬくしてる奴ではなく、
ドライバーの責任力や苦悩や決断や、勇気や交渉や、
仲間との絆やプライベートな魅力や、内に秘めたものである。
車とメンバーは揃っても、
目的地もハンドルを握る奴もなければ、
話は一ミリも進まない。
あなたが「お話」だと思っていることは、
ただの勘違いかも知れない。
2017年02月25日
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