2017年02月25日

初心者が犯す三大間違い

・設定を詰めたら、話になると思っている。
・キャラが勝手に動き出したら、話になると思っている。
・主人公が誰かに助けられるご都合主義。


お話とは、
問題とその解決である。
それを解決する人を主人公という。

したがって、
設定やキャラクターをいかに詳細に詰めて、
魅力的で勝手に妄想が膨らむようにしても、
お話は出来ないのである。

設定やキャラクターを作れば、
「世界」は出来る。
ディズニーランドを作るのと同じである。
ディズニーランドはお話しではない。
場である。

車で言えば、車体やエンジンや燃料や、
乗るメンバーを決めたことと同じだ。

お話とは、目的地とそこまでの道のりのことだ。


初心者は、設定に懲りたがる。
キャラクターに懲りたがる。
それは、お話を作っているのではなく、
世界を作っているだけなのだ。
お話と世界は、分離できる。

車とメンバーと目的地のたとえでいえば、
それぞれは分離できる。
つまり、交換可能だ。

車を変えて、同じメンバーと目的地に行くことも出来る。
メンバーを変えて、同じ車で同じ目的地に行くことも出来る。
目的地を変えて、同じ車とメンバーで旅をすることも出来る。

この中で、お話が変わってしまうのは、
目的地(とそこまでの道のり)が違うときだけだ。

メンバーが違うと別の話に見えるけど、
目的地とメンバーの役割が変わらないなら、
それは同じ話だと、(乱暴に)言っても構わないと思う。
(キャラクターとストーリーは絡み合って存在するから、
これはとても乱暴に俯瞰して見ている)


どんな車でも、どんなメンバーでも、
同じ目的地と同じ道のりならば、
それは同じ話をしていることと同じである。

出来るなら、その話をより面白くするような、
車とメンバーであることがベストなだけである。



さて、三番目の話。
その車のハンドルを握る人が主人公である。

ストーリーとは問題の解決であり、
その人がそれを解決しようと思いたって、
実際に解決へのりだし、
ああでもないこうでもないと試行錯誤し、
ついには解決に結びつくことが、
ストーリーである。

主体は主人公である。
物語は動詞である、と僕は言う。
その動詞の主語は、主人公である。

車とメンバーのたとえでいうと、
ハンドルを握る人が主人公である。

主人公は助手席に座ったり、
後部座席に座らせてはならない。

助手席や後部座席の人の意見で、
ルートを変えたり、休憩を入れたり、
そもそも目的地が変わることもあるけれど、
ハンドルを握る人が、最終的にそれを決定する。
つまりドライバーの責任があるということである。

主人公は問題解決の、動機がなければならないし、
問題解決のスキルがなければならないし、
問題解決の過程で起こることに責任を持たなければならない。
(自分一人ならばどうとでもなるけれど、
メンバーの命を預かっているのであるよ)

その上で、リスクを承知で賭けに出たり、
途中でいやになって逃げ出したり、
考えが足らずに失敗しても構わない。
それはあくまで旅の途中であった出来事に過ぎない。
最終的に目的地につけばいいのだ。


初心者は、ドライバーを書かずに、
助手席や後部座席を書きたがる。
それはまだ、親の庇護のもとにいる子供だからではないか。
物理的な立場じゃなくて、精神の話だ。

そもそもお話を書く目的が、
現実逃避なのだから仕方がないかも知れない。
しかし他人の無責任な現実逃避なんて、
誰もみたくないと冷静に思えばよいだろう。

私たちが見たいのは、助手席でぬくぬくしてる奴ではなく、
ドライバーの責任力や苦悩や決断や、勇気や交渉や、
仲間との絆やプライベートな魅力や、内に秘めたものである。



車とメンバーは揃っても、
目的地もハンドルを握る奴もなければ、
話は一ミリも進まない。

あなたが「お話」だと思っていることは、
ただの勘違いかも知れない。
posted by おおおかとしひこ at 14:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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