前記事の続き。
そこに流れる予告編のフォーマットが、
あまりにも似通い過ぎていて、
ヘドが出そうだという話にもなった。
たとえば邦画の少女漫画原作ものが、
全部一緒に見えるという話。
日常系のBGMからはじまって、
イケメンとかわいい子が出てきて、
なんか途中で叫んで、
そこで主題歌のサビがわーってかかって、
なんかスローモーションとかになって、
あの頃のなんとかを忘れないでみたいな、
Jpopみたいなキャッチで終わるやつ。
あとは、俳優違い、シチュエーション違い、
主題歌違い、原作違い、というパターン。
こんなことやってるから、
人気俳優かどうか、人気原作かどうかが、
ヒットのバロメーターになってしまうのだ。
同じものを作り続けているからだ。
俳優違い、シチュエーション違い、
主題歌違い、原作違いは、
フレーバーの差でしかないのである。
逆に。
あらゆる予告編を作るときに、
そういう「受ける要素」を抽出ばかりしているから、
どの映画の予告編も、似たり寄ったりになってしまうのではないか?
夏休み前には冒険ものの、「This summer」からはじまるやつとか。
かならず「オーマイゴッド」って言わせるとか。
一回BGMを切って、デーンと何かを出すとか、
素早いFIFOで危機を示すとか、
女のナレーションで「働く女の素敵なコメディ」を示すとか、
そういうパターンしか、今やないのかね?
逆に言おう。
「いけちゃんとぼく」の予告班からは、
そのような「受ける要素がないから難しい」と言われた。
はあ?
君たちの仕事は、出来上がったものからテンプレを探して、
並べることですか?
私たちはよそにない、まったく新しいことをしてるのに、
今までと同じ要素がないから宣伝できない、
と言われたのである。
全くもっておかしなことだ。
新しいものを広めるのなら、
やり方が旧態依然では意味がないではないか。
旧態依然のテンプレにはまる映画は、
テンプレで作られているということではないか。
若い漫画家や小説家が、
受ける要素を入れろと言われて悩む話は、
よく聞く。
違うんだよね。
売る人間は、売れる要素を売りたいだけであって、
売れるか売れないか分からない要素には興味がないんだよ。
だから、売れる要素がどれだけ入っているか、
チェックしてないんだ。
だって、あの糞みたいなテンプレ予告編を見れば分かるじゃないか。
あれが「売れると思って」作っているんだぜ?
(実際、売れていないと僕は感じる)
もしその作品が、本当に新しく、
今までにない面白さがあるのなら、
テンプレの予告にないやり方をしなければならない。
それが、「弊社のシステムでは出来ない」と、要するに言われているのだよ。
我々はどうするべきか。
売れてる要素ありなしでしか、売り物を見ないシステムに入って、
中から食い破るのか。
それとも全然関係ない荒野で勝手に売れて、
そういうシステムに新しい「売れる要素」と認められるか。
(例:三谷幸喜。何回やっても「三谷ワールド」という「売れる要素」としか扱われない。
人のおかしさや悲しさとか、ふざけた面白さ、見事な伏線回収、
なんて面白さとは宣伝されない)
あるいは、自分のやったことを、
絶対的な客観で人に訴えていくか。
(これが一番難しいのだが)
受ける要素があれば受けるのか?
絶対違うと僕は思う。
A社が○○で受けているから、弊社も似たようなものを出せ、
ということに過ぎない。
そしてそれは大抵劣化コピーだよな?
2017年02月26日
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