要するに私たちはそれが見たいのである。
現実にそれを駆使している人はそんなにいない。
だから、架空のフィクションを見たいのだ。
しかも、抽象的な法則を見るのではなく、
具体的な場面で。
相対性理論の方程式を学ぶのではなく、
ウラシマ効果の物語、
たとえば浦島太郎を見たいのである。
不幸を幸福に変える方法は、
沢山あるかも知れないし、
実のところ何種類かしかないかも知れない。
しかし具体的なシチュエーションや、
具体的な人間関係や、
具体的なキャラクターは、
いくらでもバリエーションを作ることが可能である。
ある具体的なストーリーが、法則○○を表していたとしても、
同じ法則○○に当てはまる、
全く別の具体的なストーリーを作ることはいくらでもできる。
これが、ストーリーが星の数ほど作られ、
なおまだ作られる理由ではないか。
で、
私たちは、不幸を幸福に変える瞬間を見たい。
それは、偶然やご都合やリアリティーのないものよりも、
リアルで現実でも使えるやつが望ましい。
フィクションを見る人は、
リアルで不幸な人だからである。
その人たちがその物語を見て、
現実の不幸を少し幸福に変えて欲しい。
僕は、物語はそのためにあると思っている。
で、
不幸を幸福に変える、新しい錬金術が、
今求められている。
全く新しい錬金術なのか、
ある程度知ってるのだが少しだけ新しいのか、
既存の組み合わせが新しいのかは、
それ次第だ。
その錬金術とは、すなわちクライマックスの、
問題が解決する瞬間のことである。
全ての物語はその為に存在するからだ。
あなたは、どんな新しい錬金術を使って、
どんな具体的な不幸な主人公を、
どのようにして幸福へと人生の転換をさせるのか。
ここが物語の核になる気がするし、
ここさえ出来ればあとは逆算ではないかな、
などと僕は考えている。
全てはクライマックスなんだけど、
それは絵的なスケール感とか、
重大なことが決まる緊張感とかではなくて、
不幸を幸福に変える瞬間の、
仕組みのようなものが、
クライマックスなのではないだろうか。
たとえば宗教は、
「神に愛されるから、不幸が幸福になった」と考える。
そうじゃない、
不幸を幸福に変える錬金術が、
ストーリーに求められるのだ。
(逆に言うと、宗教は、
上のようなストーリーで人々にカタルシスを与える一派である)
2017年02月26日
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