2017年02月27日

逆転に次ぐ逆転

一個逆転を考えるのだけで難しいのに、
人が楽しむのは、
逆転逆転また逆転の話である。


逆転を作るのは難しい。
落差があればあるほどだ。

しかしあなたは、逆転を一回で済ますべきではない。

主人公優勢→敵が優勢→主人公逆転、
では、一回しか逆転がない。
起伏がないのである。

敵優勢→主人公の一手で形勢逆転→敵が反攻、逆転
→主人公は工夫する→このままじゃ間に合わない!
→主人公の逆転の一手が!

ぐらいで、まだ普通だろうね。

敵優勢→主人公の一手で形勢逆転→敵が反攻、逆転
→主人公は別の手で反撃し、敵を誘導
→しかしここでも敵の方が一歩上手で、再び敵逆転
→主人公ピンチか、いや、まだこの手があったか!
→再逆転

で、ようやくましな、見れるものになってくる。

なぜそうかというと、
「どうせ主人公が勝つんだろ?」と、
みんなが思っているからである。

どうせ勝つ話には、みんな興味がないのだ。

勝つかどうか分からない話なら、ちょっと気になる。
勝つんだろうけど、
こっからどう逆転するのか分からない話も気になる。
そういうものは、「気になる」のである。

詰まらない話を考えよう。
主人公がどうなろうが、気にならない話が、
詰まらない話である。
勝つか負けるか、どっちゃでもええわ、
となってしまうと、それはどうでもよくなる。
この最初に興味を持たせるのは、
勝つか負けるか分からないことよりも、
感情移入という興味であった。

一端感情移入で入らせたのなら、
その先を揺さぶるのである。
どうなるか読めないぞと。
それが、ハラハラという感覚である。

私たちはハラハラしたいのだ。
ロープの上を渡るようなハラハラだ。

それは何も吊り橋を具体的に渡らなくていい。
「状況の吊り橋」を渡らせるのである。
普段ならそんな危険なところはいかない。
しかし動機と目的が、その危険な橋を渡らせるのである。

状況の吊り橋というのは、
そこに危険があるような状況が、既に分かっているということだ。
危険な状況を示す一番簡単な方法は、
誰かを殺すことである。
(物理的に殺さなくても、社会的に殺すことも含む。
二度と人前に出れなくなるとか、名誉が失われるとか、
人格が著しく傷つけられるとか)

最も賢い方法は、
危険を想像させることである。
人は見えていないものが一番怖い。
想像が一番怖い。

たとえば、サーカスの綱渡りを見たことがあるだろうか。
上手な綱渡りというものは、どういうものだろう。
すっとわたり始め、何事もなく渡りきることだろうか。
違うのだ。
最初にロープを揺らしたり、下を覗きこんだりして、
「ここは怖いところ」と観客に印象づけてから始めるのが、
上手な綱渡りなのである。

これを「演出」と思考停止してはいけない。
演出と理解するならば、演出とはストーリーをつけることだと大雑把に考えてもいい。

上手な綱渡りとは、エンターテイメントである。
怖いところであることを示してから始める。
何のために?
逆転の構造を最初からつくるためだ。
マイナスから始めれば、渡りきれば逆転だ。
すっと始めてしまえば、ゼロスタートでしかない。

時々途中でロープを揺らして、わざと安定を崩すかも知れない。
何のために?逆転の構造を作るためである。
実際に落ちるわけにはいかないから、
観客の想像を借りるのである。
ここで揺れるってことは、相当危ないぞと。
中弛みが、こうして無くなるのである。
綱渡りは、ただ歩くだけのものでOKではない。
そこにストーリーがあるようにする。
どういうことかというと、
逆転に次ぐ逆転である。

サーカスですらそうなのだ。
あなたのストーリーはどうか?



逆転に次ぐ逆転。
それは将棋のような頭脳戦かも知れないし、
ボクシングのような肉体の限界かも知れない。
いずれにせよ、
ストーリーというのは、ハラハラしなければならない。
演出というスパイスをかければ、
ストーリーが自動的にハラハラになると思っているのなら、
それは無知による勘違いである。
ストーリーそのものが構造的に、
逆転に次ぐ逆転を内包しなければ、
スパイスのかけようもないのだ。

逆転に次ぐ逆転を考えるには、
観客の「どうせここでこうなるんでしょ?」
を、上手に裏切らなければならない。
「ほら、セオリー通りこうなったよ」と思われたら、
それは揺れないロープと同じになってしまう。
「これは予断を許さないぞ」と一回構えさせれば、
実はそのまますっと歩いて終わったとしても、
予断を許さないまま最後まで見てくれる。
想像させるとは、そういうことだ。

だから、最初のロープを揺らして危険を示すのは、
強烈な印象を与えなければならないのである。


みんなどんでん返しが好きなのは、
逆転に次ぐ逆転が好きだからだ。
でも注意すべきは、
どんでん返しが一回の逆転に終わってはならないことである。
どんでん返しに注力するあまり、
逆転が一回しかない、平凡な話になってやしないか。

先入観を裏切ろう。
先入観を植え付けて裏切ろう。
逆転は人の心をハッとさせ、
ロープを揺らされて危険を想像させる。
それが早いうちにあれば、
この先が気になるというものだ。
posted by おおおかとしひこ at 11:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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