ことば全般の話なので、脚本論でやります。
昔鼻濁音の話から、「ん」の発音には数種類あるという話をしたと思う。
前記事の「ゎ」の話もある。
我々の入力する文字と発音は完全一致していない。
つまり、明治政府の奨励した、
言文一致は、まだ完成していないと言える。
近年の例では「あ"」(藤原竜也)が打てないとかね。
(今クォーテーション記号で代用している)
現代仮名遣いは、
実は我々の多様な発音集合より、
小さな集合である。
つまり我々の発音よりも、字のほうが少ない。
しかし、鼻濁音の「ん」をちゃんと発音する人が少ないように、
「ん」は今ひとつの音に収束しかかっている気もする。
「んーっと…」の「ん」かな。
で、本題の脚本論に戻る。
脚本に表記される台詞。
これは、最終型は「音」である。言文の言だ。
しかし脚本には「文字」で書いてある。言文の文だ。
そして、言文は一致していない。
この違いをちゃんと分かってる、
脚本家および、脚本を読む人は、意外と少ないんじゃないかな。
脚本を「よみもの」のように読んではいけない。
たとえば小説や評論や随筆は、
言文の文である。
目で文を見て、目で理解する。
漢字の意味は視覚で分かり、構成が内容の構成であることも、
視覚的に理解する。
これらを全部よみものということにする。
よみものに、音は登場しない。
(頭のなかで声がするという人と、しない人がいるらしいことが、
研究でわかっている。前者は読書が苦手で、大量に読めない。
後者は黙読が速いので読書が得意になる。
僕は後者であるが、読書自体は嫌いだ。
左脳優位か右脳優位か、という違いの可能性がある)
だから、一見よみもののスタイルをしている脚本を、
よみもののように読むのは誤読である。
脚本は、音で理解されなければならない。
僕は脚本を楽譜だとよくいう。
同音異義語を避けるのは当然だ。
視覚的な構成(段落わけなど)は存在しない。
また、間など、よみものの表記法にないものがある。
僕がカタナ式をローマ字入力にしたのは、
脚本が「音」で表現されるものだからだ。
日本語には言文があり、それらは一致していない。
日本語の入力方法には大きく二種類ある。
ローマ字入力と、かな入力だ。
ローマ字入力は、言(音)を入力して確定する。
かな入力は、文(視覚的な字)を入力して確定する。
脚本は、音だ。
だから僕は、小説家じゃなくて、脚本家なんだなあ、
と感慨深く気づいてしまったわけだ。
脚本は小説ではない。
視覚的な文字はいわばどうでもよく、音だけが便りである。
ラジオドラマの脚本と、映画の脚本の差異はほとんどない。
小説に音はない。
一見、脚本と小説は似ている気がする。
しかし、音による表現と、視覚による表現という点で、
両者は対極的に異なるものなのだ。
で、しかも、言文一致運動は完成していない。
僕が小説家だったら、
カタナ式はきっとかな入力になっただろう。
頭のなかに出てくる文字は、文だっただろうからだ。
でも僕は脚本家なので、
頭のなかに出てくる文字は、言の形で出てくるようだ。
だからローマ字入力が、デフォなんだよね。
日本語入力のやり方には、色々あっていいと思う。
しかしこのような話は聞いたことなかったので、
書いてみた次第。
(そもそも脚本家かつ小説に日々悩み、かつ日本語入力に詳しい人、
というのがレアなのかもだが)
ちなみに漫画は?
台詞が文、オノマトペ(効果音)が言だよなあ。
でも、車田効果音「ザシャア」は、
言(実際の音)ではなく、擬態語に近いことが、
実際にドラマを作った僕の結論だ。
だから、オノマトペには、言と文が混在していると言える。
日本語にはふたつの表現方法がある。
言と文だ。
音と文字だ。
言文一致運動は、これらを一致させようとしてきた。
しかしネットスラングなどで、
言と文はまた分かれようとしている。
顔文字文化は言とはまた違うものだ。
(若者には、顔文字なら伝わるニュアンスも、
表情や言い方では伝わらないということもあるかも知れない)
私たちは、脚本を書こうとしている。
あるいは、その脚本は読まれようとしている。
(読まれることで、言が文と混同されている、
という製作委員会的な事情もありそうだ)
それは言であり、文でなく、
それは歌詞カードに似ていて、法律には似ていなく、
それはローマ字入力であり、かな入力ではないことを、
把握して運用しよう。
目で見るのと音で聞くのはちがうのです。
よく言われるこの言葉の背後には、
こういう議論が渦巻いているわけである。
あ、僕が小説がうまくかけないとずっと思っているのは、
僕の字の扱いが、脚本的だからかも知れないね。
2017年02月28日
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