2017年03月01日

テーマの語り方3

さらに続き。

前説とあと説をつけることによって、
どういう効果があるか。

三人称と、一人称二人称を、
分離することである。


初心者にありがちな過ちは、
三人称で通すべき物語形式であるシナリオに、
一人称が混ざってしまうことである。

三人称形式は、
「わたしでもあなたでもない、
全く関係ない他人同士に起こった話」
なのだが、
これを簡単に「わたし」と混同してしまうのである。

一人称小説(わたしは…)とは訳が違うのに、
である。

この混同のせいで、メアリースーがやってくる。
具体的には、主人公に苦労させることが出来ず、
楽な道だけを行かせてしまう。
三人称の主人公は、最も苦労して悲惨な目に遭うべきで、
それが話の楽しみであるにも関わらず、だ。


前説とあと説をよくみると、
「わたし」が「あなた(たち)」に、
これから語りますよ、という形式をしている。
そこに、一人称と二人称の関係がある。
話し手とと聞き手である。
わたしはわたしの話をしない。
あくまで、主人公○○に起こった出来事を語る。
○○の話の中には、
一人称も二人称も登場しない。
誰か他の、他人の話だからだ。

つまり、
前説とあと説:一人称と二人称
本文:三人称
という、分離が起こっているわけである。


これは、
三人称形式の物語とは、
一人称が二人称に語った、
三人称の物語にも関わらず、
本文がはじまってしばらくたつと、
いつの間にか一人称と二人称は消えていて、
三人称の中に我々の視点がはいりこみ、
いつの間にか「自分の体験」として疑似体験し、
お話が終われば、
その三人称はいなくなり、
一人称と二人称だけが取り残され、
それから別れて二度と会わないかも知れないが、
一人称と二人称の脳の中には、
同じ「自分の体験としての物語」が共有される、
という、
三人称形式の構造を、
とても本質的に簡略化しているわけだ。

これは、
一人称形式の構造とは異なる。
一人称は、わたしの体験を、
自分の体験として、二人称に想像してもらい、
体験を分かち合うことである。

そこに第三者は介在しない。

三人称形式というのは、
第三者を介在させて、
一人称にまつわるまわりのことも、
二人称にまつわるまわりのことも、
一端捨象するのである。

だからその第三者には、一人称も二人称も出てこないのである。



三人称形式の物語は、
このように、一人称形式の物語が、
いわば進化した構造になっている。

しかし、そもそもこれを上手く扱うことが出来ない初心者は、
簡単に三人称と一人称を混同し、
分離できなくなるのである。


そこで、このような前説とあと説を設ければ、
ここまで一人称と二人称、
ここから三人称、
終わったら一人称と二人称に戻る、
という、意識の境界線になりやすいのではないかと、
思う次第である。


主人公は作者ではない、
なんて一言で言う裏には、
こういう議論が渦巻いていると思う。


僕は毎回、
ここらへんで、「さて、あなたの物語はどうかな?」
なんてよく問いかけるけど、
それは、一人称と二人称に戻ろうとしているわけだね。
posted by おおおかとしひこ at 12:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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