デジタルのいいところはコピペである。
だから、前作ったものを改訂するときに、
おおむねコピペして、訂正するところだけ訂正すれば、
手間は大幅に省略できた気になる。
これがデジタルの、実はよくないところなのだ。
脚本をリライトするとき、
僕はなるべく白紙に一から書き直せ、
という一番労力的にはしんどいことを勧めている。
これは、デジタルの罠に捕まらない方法なのだ。
何かの原稿や書類をデジタルでつくっているとしよう。
アフターエフェクツのレイヤーやコンポジションでも構わない。
これらの要素構造を簡単に考えるため、
A、B、Cの三要素で出来ているとしよう。
これを何か直すときに、
AをA2にいじり直したり、
BとCの接続部を繋ぎ直してB2C2にしたりすることは、
デジタル作業ではよくあることだ。
A3、A4、…と何度も訂正したり、
B7C12と、バージョン違いを繋ぎ直すこともよくある。
で、全バージョンを別ファイルにナンバリングし、
それらを比較することも、よくやる。
これで訂正したり改造したりした気になること自体が、
デジタルの罠なのである。
どういうことだろう。
創作というのは、
意図したことを、具体的なもので表現するものである。
今で言えばABCだ。
デジタル作業に没頭していると、
ABCばかり見ているので、
実はDEFの組み合わせのほうが、
意図したことを表現できる、
という可能性に、全く気づかないことがあるのだ。
あるいは、いろはにほへと(という全然違う要素)が、
その表現を最もうまく表現できる、
ということすらある。
それが、全体を見るとか、引いて見るということだ。
デジタル作業は、目の前のことで視野狭窄をおこしがちなのである。
A3かA4かを考えて迷うと、
ABCであるべきか、FGHであるべきか、
全然違ういろはであるべきか、
そこをそもそも潰した上でそうなったかどうか分からなくなってくる。
そして、ABCの可愛さのあまり、
「そこは潰した」と自分を納得させてしまう。
そこがデジタルの視野狭窄なのだ。
何をどう訂正するのか。
それは何を表現していて、それはそもそも何を意図したものなのか。
それからそれに変えることにより、
得るものと失われるもの。
それらを、ABCの視野範囲でしか見なくなってくる。
ABCしか世界がなくなる。
すぐ横に正解があることに気づかず、
隣の不正解の牢獄で迷い続けているだけなのに。
で、
僕は、一回寝ろ、という。
で、
全てを忘れた状態で、
白紙に全体像を書け、
という最もアナログな方法を勧めている。
全ての要素が、あなたの体で持てる分だけが、
あなたが持っていけるものである。
デジタルは、その量を見誤らせるのである。
あなたは、
自分で持てるだけのもの全部で、
語りをする必要がある。
それにデジタルは、余計なギプスをつけている。
デジタルは人を幸せにしない。
あなたは暗闇の焚き火で、
聴衆に向かってお話をする。
何も見ずに、淀むことなく。
それは、デジタルがないころから、
ずっと人類がやってきたことだ。
それは、人類の才能にあったことだ。
あったことなら、出来る。
デジタルギプスなんて、ないほうがいい。
身一つで、語れるようになれ。
デジタルはほんとに人を幸せにしてるのかなあ。
怠惰とバカが増えただけじゃないかなあ。
2017年03月02日
この記事へのトラックバック
続けている者です。
つい先日、円谷プロダクションさん創設の
金城哲夫賞に応募し、最終選考で落選して
しまいました。
相当に自信のある作品だったこともあり、
このまま書き続けていくべきかを思い悩んで
いたところ、こちらのブログに漂着した
次第です。
大岡さんの脚本論は、いちいちごもっともだと
感服しきりです。
校正やリライトも、確かに白紙から見直すくらいの
気概が必要だと思います。
執筆の横着は創作意欲欠如の表れですもんね……
深く反省します。
自分の“面白い”が誰かに共感してもらえると信じ、
これからも書き続けようと思います。
金城賞、実は狙ってたのですがスケジュールが合いませんでした。
最終選考まで残れば芽はあると思います。
円谷以外にも間口を探してください。
ぶっちゃけ、賞レースは「その時ほしいもの」に合致してるかどうかというのもあるので、
運が絡みますよ。
勿体ないのなら、小説化して小説賞狙いの手もあります。
多少勝手が違うけど、森絵都さんの例もあるしね。
お互い頑張ってまいりましょう。
ここはいつでも空いてます。
何年か前に「時の運もある」という励ましを
奥山和由さんから頂いたことを思い出しました。
泣きそうです……
【追伸】
落選作品ではありますが、「小説家になろう」に
シナリオ形式のまま投稿しちゃいました。
小説化にも取り組んでみようかと思います。