映画が小説とちがうのは、
映画は具体的な形を伴うということである。
たとえば「悪意」を撮影することは出来ない。
だからこれをたとえば、
「誰かが誰かに耳打ちしている絵」で表現したり、
「ナイフで象徴的に示す」であったり、
「LINEいじめに使われたスマホという小道具」で象徴したり、
「妖怪『悪意』がその人に取り憑いた(擬人化法)」
などのような、
「絵で表現できる方法」に替えるのである。
それをどのように絵に変換するかは、
話によって異なるだろう。
もっともある程度定番はあって、
文化によって王道とされるものもあるに違いない。
しかし、全く新しい概念だとどうか。
たとえば近年発明された「空気を読む」という概念を、
絵で示すことが出来るとは思えない。
(できたら今後定番になり得る)
過去にあったことだと、
「ウォークマン」が初めて発明されたころ、
「外に音楽が持ち出せる」という概念すら、
世の中になかったわけだ。
それまでは、
部屋で据え置きのプレーヤーにレコードもしくはカセットをかかけるか、
ラジオか有線で聞くか、テレビの歌番組を見るか、
生音楽しか選択肢がなかったわけである。
「いつでもどこにでも音楽を持ち歩ける」
という発想がなかった時代だった。
で、それを世界で初めて「絵にした」ものはどうだったか。
「だれかがイヤホンをして、渋谷などの街を軽快に歩く」のではなく、
「猿が直立不動でイヤホンをつけたまま音楽を聴いている」
(ウォークマンのはじめてのCM)だった。
それは、「ふつうじゃない」という感覚の、絵による表現だったのである。
(理屈をいえば、「人類は進化しつつある。猿すらウォークマンで進化するかも」
という、進化の表現だったのだ)
つまり、音楽のモビリティーは、当時絵に出来ない概念だった。
代わりに、「進化」というメタファーを持ってきたわけだ。
ウォークマンの誕生は、それほどインパクトがあったのである。
逆に。
ある概念を表現するのに、
定番がないならば、
インパクトのある、全然関係ない絵で、表現できる可能性がある。
ということは、手垢のついた概念ではなく、
新しい概念を扱っていくと、
新しい絵を生める可能性が出てくると思うのだ。
「これは絵になりそう」とか、
「絵が浮かぶ」なんてシナリオは、
ひょっとするとB級レベルかも知れないぜ。
どうしてこんな絵にこんな意味が、
なるほど想像もつかなかった、
なんて絵と意味のセットを考えられた奴が、
次代のイコンをつくるのだろう。
2017年03月07日
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