2017年03月07日

「絵にする」ということは、概念に形を与えること

映画が小説とちがうのは、
映画は具体的な形を伴うということである。


たとえば「悪意」を撮影することは出来ない。

だからこれをたとえば、
「誰かが誰かに耳打ちしている絵」で表現したり、
「ナイフで象徴的に示す」であったり、
「LINEいじめに使われたスマホという小道具」で象徴したり、
「妖怪『悪意』がその人に取り憑いた(擬人化法)」
などのような、
「絵で表現できる方法」に替えるのである。

それをどのように絵に変換するかは、
話によって異なるだろう。
もっともある程度定番はあって、
文化によって王道とされるものもあるに違いない。

しかし、全く新しい概念だとどうか。
たとえば近年発明された「空気を読む」という概念を、
絵で示すことが出来るとは思えない。
(できたら今後定番になり得る)

過去にあったことだと、
「ウォークマン」が初めて発明されたころ、
「外に音楽が持ち出せる」という概念すら、
世の中になかったわけだ。
それまでは、
部屋で据え置きのプレーヤーにレコードもしくはカセットをかかけるか、
ラジオか有線で聞くか、テレビの歌番組を見るか、
生音楽しか選択肢がなかったわけである。
「いつでもどこにでも音楽を持ち歩ける」
という発想がなかった時代だった。

で、それを世界で初めて「絵にした」ものはどうだったか。
「だれかがイヤホンをして、渋谷などの街を軽快に歩く」のではなく、
「猿が直立不動でイヤホンをつけたまま音楽を聴いている」
(ウォークマンのはじめてのCM)だった。

それは、「ふつうじゃない」という感覚の、絵による表現だったのである。
(理屈をいえば、「人類は進化しつつある。猿すらウォークマンで進化するかも」
という、進化の表現だったのだ)

つまり、音楽のモビリティーは、当時絵に出来ない概念だった。
代わりに、「進化」というメタファーを持ってきたわけだ。
ウォークマンの誕生は、それほどインパクトがあったのである。


逆に。

ある概念を表現するのに、
定番がないならば、
インパクトのある、全然関係ない絵で、表現できる可能性がある。

ということは、手垢のついた概念ではなく、
新しい概念を扱っていくと、
新しい絵を生める可能性が出てくると思うのだ。

「これは絵になりそう」とか、
「絵が浮かぶ」なんてシナリオは、
ひょっとするとB級レベルかも知れないぜ。

どうしてこんな絵にこんな意味が、
なるほど想像もつかなかった、
なんて絵と意味のセットを考えられた奴が、
次代のイコンをつくるのだろう。
posted by おおおかとしひこ at 15:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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