2017年03月08日

第四の壁、イマジナリライン、ネット

ここらでいっちょ基本に戻ってみよう。

ネットは第四の壁をこわし、
イマジナリラインを越えてしまった。

そういう趣旨の話をしたいので、
あらためて、三人称形式の大前提、
第四の壁について解説をしておこう。


私たちが扱うのは映画である。
フィクション形式の物語で、
スクリーンを客席の前で投射する。

似ているものに、テレビがある。
テレビドラマと映画の違いは、
お金と尺ぐらいしかいまや違わない。
(昔はいい画質のフィルムと、
劣化画質のアナログビデオの差もあったのだが、
デジタルカメラの発達によって、
素人目には差がないようになってきた)

さらに似ているものに「動画」「映像」がある。
ビデオ信号とオーディオ信号をもっていれば、
なんでも動画であり映像であるが、
とくに映画とドラマが明確なストーリーがあるのに対して、
「なくてもいい」のが、動画とか映像とか呼ばれる傾向にある。
ネット動画、ニュース動画、ネコ動画、ネタ動画、
などなどだ。
(映像は、もう少し「手をかけて作ったもの」という意味合いが強い。
実験映像、インタラクティブ映像、映像による解説、
なんて使い方だね。VRもここに入るかな)

いまやネットには動画があふれ、
(ひとつひとつをコンテンツという不加算名詞で示す)
動画も映像もドラマも映画も、
ビデオ信号とオーディオ信号という意味では区別できないように見える。

しかし、それらを明確にわける線が存在する。
それは、脚本の有無といってよい。

ストーリーがあるものには、計画された脚本があり、
脚本通りに秩序がつくられる。
ストーリーがないものでも「おもしろいもの(こころがうごくもの)」
は沢山ある。グラビア、ネコ、解説、ネタ、ニュース、
などはストーリーがないもので、脚本がなく、
偶然出来上がった秩序である。


私たちがストーリーの核である脚本を書くときに、
ストーリーのないもの(ここでは動画とよぼう)
と混同してしまうことが、
とくに初心者にはよくあることだ。
それは、ネットにあふれる動画と、ストーリーのあるものとの、
明確な違いが、ディスプレイの前では分かりにくいからである。

両者の差異は、
脚本の有無であるのだが、
見た目でも判断できる。

第四の壁の有無である。

(第四の壁は透明なので、厳密には見た目では判別出来ないが…)


第四の壁とは、
映画よりもさらに原始的な形式、
演劇の用語である。

演劇も映画も、形式は似ている。
第三者がストーリーを再現し、
客席の私たちがそれに没入する。
生か、収録+スクリーン投影かの違いに過ぎない。

さて。
当たり前のことを書いてみよう。
(一部の実験的な例外はのぞく)

・客席は動かない。私たちは客席に不動で、最初から最後まですごす。
・ストーリーの中のことと、客席の私たちは無関係である。
(たとえば、客が舞台に上がったりしないし、
役者がとつぜん客席の親と日常会話をすることはない)
・つまり、ストーリーと客席は切り離されていて、
客はあくまで、そのストーリーを、「ひそかに覗き見している」
という設定である。
・にも関わらず、客はいつの間にかそのストーリーの中に参加した気になる
(没入、感情移入)。ストーリーの行方に自分が影響を及ぼすことは出来ないし、
これが終われば家に帰らなければならないのにだ。


ということは、ストーリーと客は、
物理的には分離されている。
(ネット動画はその限りではない。
たとえばニコニコ動画には客がコメントをつけて、
動画に参加している。
もっとも、演劇で歓声を上げることは可能だ。
しかし拍手も歓声も、舞台には上がらないという前提で、
これを楽しむのである)

その分離ラインを、イマジナリラインという。
想像上の線、という意味だ。
大抵演劇では客席よりステージが高いか低いかで、
明確な線引きがそこにある。
映画も同じで、イマジナリラインはスクリーンである。
私たちはスクリーンの向こうにいけないし、
スクリーンの中から中の人が出てくることもない。
(だから中の人が目の前に出てくる舞台挨拶は、華なのである)

ものすごく当たり前の話で退屈かも知れない。
でも、ネットと違うよと言われると、話が変わってくるよね。


さてさて。

たとえば部屋のシーンだとしよう。
部屋は四方を壁に囲まれているのだが、
演劇は、その壁がひとつ透明だ、
という体で演じられる。
ほんとに四方に壁を建てたら、客席からなにも覗き見出来ないからね。
その透明な壁を、第四の壁という。
客席から見て、奥の壁、左右の壁はセットで作るのだが、
手前の壁は、透明な仕様なのである。

当たり前だけどここがだいじだ。
演劇や映画には、
ストーリーのある三人称の形式のものは、
脚本のあるものは、
第四の壁があり、イマジナリラインがあり、
ストーリー内と無関係な観客が、
たまたまそれを覗き見する権利を買っている、
という仕組みなのである。

客はイマジナリラインを越えないし、
ストーリーもイマジナリラインを越えない。
第四の壁の向こうとこっちに、分離されている。


テレビが、実はこれを壊した。
正確にはテレビのドラマ以外は、
第四の壁やイマジナリラインを越えている。
カメラ目線によってである。

報道やバラエティーを考えればわかるが、
テレビの中の人は、私たちとコミュニケーションを取ろうとする。
残念ながら私たちはテレビの中に入れないので、
半分のコミュニケーションではあるが。
少なくとも、テレビの中と私たちは、
ドラマとは違って地続きである。
熊本で地震が起こればニュースとして私たちに語ってくるし、
芸能人は別の世界の人ではなく、
六本木とかで飲んでる人である。
(ドラマは、架空である)

楽屋落ちとか、メタとかいうものを、
80年代にフジテレビが持ち込んだ。
たとえば沢尻エリカが、ドラマの中で「別に…」と言えば、
それはイマジナリラインの向こう側の話ではなく、
第四の壁を越えてきたこと(自虐ネタ)だということが、
私たちには即座にわかるわけだ。

芸能人のブログやツイッターは、
自らのプライベートをさらすことで、
第四の壁を越えてコミュニケーションする方法である。
私たちは人間で、
架空の存在ではないことで、
仲間意識や親しみをもってもらおうという考えな訳だ。

このことで、
第四の壁を越えることが容認された。
そのせいで、フィクションが力を失った。

フィクション、ストーリー、脚本とは、
第四の壁を前提とするからである。

たとえば私たちは推理ドラマを見たいのに、
その中の人が中の人のネタをやってしまったら、
しらけてしまうのである。

第四の壁でいえば、
途中で急に、存在しない壁の除き穴に気づき、
「誰かに見られてる!」と大騒ぎして、
こちらとコミュニケーションを取ろうとすることと、おなじなのである。


勿論、
映画の歴史において、
第四の壁を壊したり、イマジナリラインを越えようとした実験はたくさんあった。
ヒッチコックの「裏窓」は、それを利用した話だし、
ウッディアレンの「アニーホール」は、カメラ目線やメタ文脈を取り入れたシーンがある。

しかしながら、
その実験で得たことは、
第四の壁を壊すとしらける、という、今では当たり前になっていることであった。



たとえば。

客が舞台に上がる例では、
素人のど自慢とか、ストリップのまな板本番ショーがある。
第四の壁を越える例だ。
役者がプレゼントを投げるのも、小さくはイマジナリラインを越えている。
イマジナリラインを越えるのは、
フィクションにとって、
「これは作り物に過ぎない」という覚めた目の導入である。
「これはフィクションなのだが、
没入している間だけは真実である」
という前提を崩してしまうのである。



さてネットだ。
素人動画は、観客とのイマジナリラインを想定していない。
自分がやったことの記録にすぎず、
それは社会に称賛される前提で、
社会に共有(シェア)されることが目的である。
ニコ動でコメントしたり、いいねしたりすることで、
その動画はイマジナリラインを越えて行く。
そもそも、イマジナリラインの向こう側のフィクションではないからである。

ネットの発達によって、
つまりは、第四の壁やイマジナリラインは、
なくなってしまったのである。
誰もが等価に繋がるから、
繋がりが前提なのだ。

第四の壁やイマジナリラインは、
その向こう側と、繋がっていないからこそ、
色々なことをしたのである。

そこの違いだ。


これを混同している宣伝部が、
第四の壁を壊した宣伝をすることがある。

この映画で共演した二人がつきあったとか、
フルヌード披露とか、
繋がった社会の人気者(芸人)を、イマジナリラインの向こう側に参加させる
(アンバサダーとか声優起用で)
などなどである。

これは第四の壁に対する、重大な冒涜であると僕は思うのだが、
第四の壁とかイマジナリラインのことを知らないと、
よく分からないことかもしれない。



私たちは、まずあなたたちとの間に、
境界線を引く。
あなたはこちらに入ってはいけないし、
私もそちらへはいかない。
あなたと私は無関係であり、馴れ合いも喧嘩もない。
今後の付き合いもないし、今までもなかった。
ただ、ストーリーがはじまり、終わるまで、
激しく同じものに没入するだけの関係である。

この紳士的協定が、
第四の壁であり、イマジナリラインである。


脚本家は、だから、
イマジナリラインの向こう側のことを、
イマジナリラインのこちら側から見るのである。

向こう側とこちら側を、往復してはいけない。


登場人物は、あなたではない。
どこか別の世界のことであり、
イマジナリラインのこちら側とは、無関係の世界である。
無関係だからこそ、無責任に色々なことができるし、
無責任だからこそ、こちらの世界と関係がないし、
無責任だからこそ、こちらの世界に抵触しない、真実が描けるのである。


第四の壁、イマジナリラインを守るということは、
そういうことだ。

SNS、カメラ目線、手紙や通達、
VR、遊園地のライドは、
全てイマジナリラインを越えている。

混同しないことだ。




ちなみに、
メルカリのCMの主人公の球児は、
イマジナリラインの向こう側の高校球児ではなく、
制作者側、視聴者側の人物になってしまっている。
(こっそり裏でやって、表ではばれたくない)
その時点で彼は我々の世界の住人になってしまっている。
だから非難されているのだ。

イマジナリラインの向こう側の、他人の話であるべきところを、
わたしと混同してしまうことを、
このブログではメアリースー現象と呼んでいる。
わたしは、努力したくないしずるをしたい。
他人の前ではそんな態度は見せないくせに、
見せてしまうことで、
三人称と一人称が混同されているのである。



イマジナリラインの向こう側を、
あなたは客席側から書く。
あなたは客席側にいる。舞台には上がらない。
舞台に上がりたかったら、役者になるべきであり、
客席側にいないことだ。

登場人物の内面や、人物関係を、
彼らの身近に迫って想像することは楽しい。
それは、あなたの意識があなたの体を離れて、
世界の中に浮遊しているから起こる現象である。
それを没入、というわけだ。

没入は、客席側から起こっている。
第四の壁の、こちら側から起こる。
向こう側で起こることではない。
posted by おおおかとしひこ at 14:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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