矢は時間軸の象徴。
世界観だけではストーリーにならない。
キャラクターだけでもストーリーにならない。
それらは設定として時間軸を持たないから、
変化しないわけで、
変化すること、次々に設定が更新されていくこと、
その時間軸や変化が、
ストーリーである。
(何回更新されるかが、
ターニングポイントである。
このターニングポイントは、二時間映画なら、
話によるが数十から100ぐらいはある。
なかでも大きなやつは第一ターニングポイント、
第二ターニングポイント、ミッドポイントであろう)
さて、
時間軸がない、設定だけの世界に、
時間軸を発生させる方法がある。
それが目的である。
登場人物、まずは主人公が目的をもつと、
話は動き出す。
そして、主人公だけが目的を持ち、
他の人物がNPCのようにリアクションしかしないわけではない。
彼らも目的を持つことが、物語だ。
「物語的な目的」というと、
壮大できちんとした目的、
たとえば「いつかアーティストになる」とかを想像しがちだが、
「家賃を払いにコンビニにいく」とか、
「しょんべんが漏れそうでトイレを探している」とかでも構わない、
人生の目的、なんていうと壮大で難しいが、
日々の目的、なんていうと小さなものになる。
また、目的は「今日一日たのしく過ごす」という抽象的なものは、
映画では不可能である。
なぜなら、目的が実現したかどうかを、
三人称の絵で示せないからである。
目的の達成は、台詞ではなく絵で示すものだ。
「今日、おれは目的を達成した」と、
絵で示さずに台詞で言われてもよくわからない。
台詞がなくとも、
コンビニで入金し終わりほっとする表情や、
トイレに大量に放尿して解放される表情、
あるいはペットボトルに放尿する姿などで、
目的の達成は無言で表現することが可能だ。
これを絵で表現する、という。
小説とは違って、映画は、
目的の達成を、絵で示すジャンルだといえる。
したがって、目的は、必ず絵で示せるものに限定すべきである。
逆に、抽象的な目的を、
「絵で示せる具体的な目的に変換すること」が、
映画的な物語をつくる、
ということに他ならない。
たとえば、
「幸せになる」という抽象的な目的を、
「幸せの青い鳥をみつける」という、
絵で示せる具体的な目的に変換したのが、「青い鳥」という物語だ。
物語は、目的の矢が飛んでいる状態を想像するとよい。
それぞれの登場人物の、目的の矢が飛んでいる。
それはどこかでぶつかる。
ぶつかって目的を変更して別れるか、
ぶつかってどっちかが死ぬか、
目的を同じとして呉越同舟するかは、
話次第である。
さて、目的の矢を考えたとき、
そこには必ず三つの要素が存在する。
過去、今、未来である。
矢のうしろは過去だ。
どうしてそういう目的を持つに至ったか、である。
これを動機という。
動機(抽象的)があるから目的(具体的)がある。
その動機を目的の達成で実現するのである。
たとえば、
「有名になりたい」という動機ならば、
「アーティストになる」目的を持つこともあれば、
「全裸で渋谷でさわぐ」目的のこともあるだろう。
その登場人物次第である。
矢のうしろのことを、
毎回詳しく解説する必要はない。
ただし、どういう過程でこの目的を持つに至ったか、
を説明すると、人は感情移入(同情)する傾向にある。
登場人物全てについてやらずに、
感情移入してほしい人だけ過去を明かすのは、
テクニックとして覚えたほうがいいかも知れない。
(下手な人は全員感情移入するエピソードを作ってしまい、
決着がつくのが怖くなって、話を進められなくなってしまう。
トーナメントを想像するとよい。勝者は一人で、
あとは全員目的を達成できない運命だ。
たとえばバキのオーガを、敗北させることを、
板垣は嫌がったため、バキオーガのバトルは陳腐な決着になってしまった)
過去は、目的の矢を飛ばす原動力である。
その原動力が発生するところからストーリーをはじめてもいいし、
すでに発生しているところからストーリーをはじめてもいい。
入りやすければどちらでもいい。
また、発生時点の原動力だけでなく、
「これまでの軌跡」が、目的の矢の原動力になることもある。
「ここまで来たんだ。やるしかない」は、
人生でも映画でも、まあよく聞くセリフだよね。
観客が、その目的の矢に感情移入して、
是非その目的を実現してほしいと強く思うとき、
その人物の挫折は、とても面白い展開になる。
その人物が再び立ち上がることが、
とてもドラマチックになるからだ。
挫折は、少なくとも映画的な物語では、
再び立ち上がることへの前ふりにすぎない。
再起へのスパイスが挫折である。
(しかし作者的には挫折をメインに書いてしまい、
再起をうまく書けないという問題がときどき発生する。
たとえば矢吹丈は力石の死という挫折を、
たぶんうまく乗り越えられなかった。
力石の死を受け入れ、乗りこえ、より強くなった丈こそが、
望まれる最終回だったのに、
丈は美しい死で、勝手に退場してしまったのだ。
僕は当時小学生だったが、大人になっても納得がいっていない)
目的の矢の真ん中は、今である。
今どんな気持ちか、
今どんな考えか、
今何をしなければならない最中か、
今何をしている最中か、
そこにいる人の同じこと、
今ここにいない人も、別の今があること。
これらをうまくさばきながら、
あなたは物語を書いていく。
集中しながら、目端も効かせながらだ。
それぞれの登場人物だけではない。
観客の気持ちの今も、コントロールしていくのである。
その全ての流れが心地よければ、最高なのだが、
大抵はそれらのどこかに綻びがある。
今が途切れるのである。
あることとあることの間の繋ぎが、
不自然だったり、理屈にあってなかったり、
唐突だったり、不可解であったりするのだ。
それは、大抵、「ある展開にしようとしたこと」
の歪みであることが多い。
展開に無理があるのである。
解決法はふたつ。
その展開でない自然な展開を考え出す。
その展開が自然になるように、全ての流れをコントロールしなおす。
初心者のころは、全てに目端が効かないので、
今の不自然さに気づかないことが多い。
近視眼だけでなく、全体を見なきゃいけない。
わかっちゃいるんだがね。
大抵あなたが夢中になっているところが、危ないところだ。
しかし夢中にならなければ、物語は熱を持たないので厄介だ。
僕は、冷静な状態でプロット、
つまり複数の人物の目的の矢の軌跡を作り込んだ上で、
執筆を情熱で書く。
俯瞰は冷静に、土俵際は熱くやることに注意している。
土俵際が勝つと、大抵不具合がどこかであるものだ。
俯瞰が勝つと、わかるけどグッと来ない話になるものだ。
目的の矢の先は、未来だ。
未来といっても様々で、
最終ゴール、ちょっと先の予定やつもり、
目の前のその先(焦点)と、
未来は同時に重なっているものだ。
アクシデントやターニングポイントで、
状況が変わり、
未来や焦点の変更を余儀なくされることも多々ある。
(むしろその変更こそ、ストーリーの進展である)
未来は常に更新される。
それは、過去と今の積算の結果であり、
「次になにをしようか」と、
その人物の決断を示すことで、
目的の矢が飛ぶ方向が決まるわけだ。
目的の矢はまっすぐ飛ばない。
他人に軌道を曲げられたり、
ターニングポイントでぶつかって別方向に飛んだり、
微妙に目的地についたけど、完全ではないと更に飛んだり、
そもそも間違っていたと逆行したりもする。
あるいは、他人の目的の矢を曲げることすらする。
そのたびに、未来の方向性が変わり、
ストーリーは更新される(すすむ)というわけだ。
それが目的に届いたときが、
目的の矢が止まるときで、ストーリーの終わるときだ。
(それが真の動機実現ではないと分かって、
新たに目的の矢が発生することも、なくはない。
シリーズものにはよくある)
それまでに何回、未来像は更新されるのか。
そのたびに、ストーリーはすすむ。
目的の矢を俯瞰しよう。
それはどのシーンで切っても、
過去、今、未来をもっている。
それは登場人物の数だけある。
整理しきれないときは、整理してみよう。
何かが足りないとか、何かが過剰であるとかが、
わかるかも知れない。
2017年03月10日
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