2017年03月10日

目的という矢

矢は時間軸の象徴。


世界観だけではストーリーにならない。
キャラクターだけでもストーリーにならない。
それらは設定として時間軸を持たないから、
変化しないわけで、
変化すること、次々に設定が更新されていくこと、
その時間軸や変化が、
ストーリーである。
(何回更新されるかが、
ターニングポイントである。
このターニングポイントは、二時間映画なら、
話によるが数十から100ぐらいはある。
なかでも大きなやつは第一ターニングポイント、
第二ターニングポイント、ミッドポイントであろう)


さて、
時間軸がない、設定だけの世界に、
時間軸を発生させる方法がある。

それが目的である。


登場人物、まずは主人公が目的をもつと、
話は動き出す。
そして、主人公だけが目的を持ち、
他の人物がNPCのようにリアクションしかしないわけではない。
彼らも目的を持つことが、物語だ。

「物語的な目的」というと、
壮大できちんとした目的、
たとえば「いつかアーティストになる」とかを想像しがちだが、
「家賃を払いにコンビニにいく」とか、
「しょんべんが漏れそうでトイレを探している」とかでも構わない、
人生の目的、なんていうと壮大で難しいが、
日々の目的、なんていうと小さなものになる。

また、目的は「今日一日たのしく過ごす」という抽象的なものは、
映画では不可能である。
なぜなら、目的が実現したかどうかを、
三人称の絵で示せないからである。
目的の達成は、台詞ではなく絵で示すものだ。
「今日、おれは目的を達成した」と、
絵で示さずに台詞で言われてもよくわからない。
台詞がなくとも、
コンビニで入金し終わりほっとする表情や、
トイレに大量に放尿して解放される表情、
あるいはペットボトルに放尿する姿などで、
目的の達成は無言で表現することが可能だ。
これを絵で表現する、という。

小説とは違って、映画は、
目的の達成を、絵で示すジャンルだといえる。
したがって、目的は、必ず絵で示せるものに限定すべきである。

逆に、抽象的な目的を、
「絵で示せる具体的な目的に変換すること」が、
映画的な物語をつくる、
ということに他ならない。
たとえば、
「幸せになる」という抽象的な目的を、
「幸せの青い鳥をみつける」という、
絵で示せる具体的な目的に変換したのが、「青い鳥」という物語だ。


物語は、目的の矢が飛んでいる状態を想像するとよい。
それぞれの登場人物の、目的の矢が飛んでいる。
それはどこかでぶつかる。
ぶつかって目的を変更して別れるか、
ぶつかってどっちかが死ぬか、
目的を同じとして呉越同舟するかは、
話次第である。


さて、目的の矢を考えたとき、
そこには必ず三つの要素が存在する。

過去、今、未来である。


矢のうしろは過去だ。
どうしてそういう目的を持つに至ったか、である。
これを動機という。

動機(抽象的)があるから目的(具体的)がある。
その動機を目的の達成で実現するのである。
たとえば、
「有名になりたい」という動機ならば、
「アーティストになる」目的を持つこともあれば、
「全裸で渋谷でさわぐ」目的のこともあるだろう。
その登場人物次第である。

矢のうしろのことを、
毎回詳しく解説する必要はない。
ただし、どういう過程でこの目的を持つに至ったか、
を説明すると、人は感情移入(同情)する傾向にある。
登場人物全てについてやらずに、
感情移入してほしい人だけ過去を明かすのは、
テクニックとして覚えたほうがいいかも知れない。
(下手な人は全員感情移入するエピソードを作ってしまい、
決着がつくのが怖くなって、話を進められなくなってしまう。
トーナメントを想像するとよい。勝者は一人で、
あとは全員目的を達成できない運命だ。
たとえばバキのオーガを、敗北させることを、
板垣は嫌がったため、バキオーガのバトルは陳腐な決着になってしまった)


過去は、目的の矢を飛ばす原動力である。
その原動力が発生するところからストーリーをはじめてもいいし、
すでに発生しているところからストーリーをはじめてもいい。
入りやすければどちらでもいい。
また、発生時点の原動力だけでなく、
「これまでの軌跡」が、目的の矢の原動力になることもある。
「ここまで来たんだ。やるしかない」は、
人生でも映画でも、まあよく聞くセリフだよね。

観客が、その目的の矢に感情移入して、
是非その目的を実現してほしいと強く思うとき、
その人物の挫折は、とても面白い展開になる。
その人物が再び立ち上がることが、
とてもドラマチックになるからだ。
挫折は、少なくとも映画的な物語では、
再び立ち上がることへの前ふりにすぎない。
再起へのスパイスが挫折である。
(しかし作者的には挫折をメインに書いてしまい、
再起をうまく書けないという問題がときどき発生する。
たとえば矢吹丈は力石の死という挫折を、
たぶんうまく乗り越えられなかった。
力石の死を受け入れ、乗りこえ、より強くなった丈こそが、
望まれる最終回だったのに、
丈は美しい死で、勝手に退場してしまったのだ。
僕は当時小学生だったが、大人になっても納得がいっていない)



目的の矢の真ん中は、今である。
今どんな気持ちか、
今どんな考えか、
今何をしなければならない最中か、
今何をしている最中か、
そこにいる人の同じこと、
今ここにいない人も、別の今があること。
これらをうまくさばきながら、
あなたは物語を書いていく。

集中しながら、目端も効かせながらだ。

それぞれの登場人物だけではない。
観客の気持ちの今も、コントロールしていくのである。
その全ての流れが心地よければ、最高なのだが、
大抵はそれらのどこかに綻びがある。

今が途切れるのである。

あることとあることの間の繋ぎが、
不自然だったり、理屈にあってなかったり、
唐突だったり、不可解であったりするのだ。
それは、大抵、「ある展開にしようとしたこと」
の歪みであることが多い。
展開に無理があるのである。
解決法はふたつ。
その展開でない自然な展開を考え出す。
その展開が自然になるように、全ての流れをコントロールしなおす。

初心者のころは、全てに目端が効かないので、
今の不自然さに気づかないことが多い。
近視眼だけでなく、全体を見なきゃいけない。
わかっちゃいるんだがね。
大抵あなたが夢中になっているところが、危ないところだ。
しかし夢中にならなければ、物語は熱を持たないので厄介だ。

僕は、冷静な状態でプロット、
つまり複数の人物の目的の矢の軌跡を作り込んだ上で、
執筆を情熱で書く。
俯瞰は冷静に、土俵際は熱くやることに注意している。
土俵際が勝つと、大抵不具合がどこかであるものだ。
俯瞰が勝つと、わかるけどグッと来ない話になるものだ。


目的の矢の先は、未来だ。
未来といっても様々で、
最終ゴール、ちょっと先の予定やつもり、
目の前のその先(焦点)と、
未来は同時に重なっているものだ。
アクシデントやターニングポイントで、
状況が変わり、
未来や焦点の変更を余儀なくされることも多々ある。
(むしろその変更こそ、ストーリーの進展である)
未来は常に更新される。
それは、過去と今の積算の結果であり、
「次になにをしようか」と、
その人物の決断を示すことで、
目的の矢が飛ぶ方向が決まるわけだ。

目的の矢はまっすぐ飛ばない。
他人に軌道を曲げられたり、
ターニングポイントでぶつかって別方向に飛んだり、
微妙に目的地についたけど、完全ではないと更に飛んだり、
そもそも間違っていたと逆行したりもする。
あるいは、他人の目的の矢を曲げることすらする。
そのたびに、未来の方向性が変わり、
ストーリーは更新される(すすむ)というわけだ。

それが目的に届いたときが、
目的の矢が止まるときで、ストーリーの終わるときだ。
(それが真の動機実現ではないと分かって、
新たに目的の矢が発生することも、なくはない。
シリーズものにはよくある)
それまでに何回、未来像は更新されるのか。
そのたびに、ストーリーはすすむ。


目的の矢を俯瞰しよう。
それはどのシーンで切っても、
過去、今、未来をもっている。
それは登場人物の数だけある。
整理しきれないときは、整理してみよう。
何かが足りないとか、何かが過剰であるとかが、
わかるかも知れない。
posted by おおおかとしひこ at 10:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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