また極論をしてみる。
キャラ愛という言葉がよくある。
世界観への愛というのもあるだろう。
しかし、ストーリー愛というのは存在しない。
なぜか。
愛というのは、変わらぬものに捧げられるからである。
美しい女への愛は、
その女の加齢により新鮮さが失われた瞬間、
「劣化」として失われる。
キャラ愛というのは、
リアル世界ではなく、
どちらかというと二次元の世界での言葉だ。
二次元のキャラは劣化しない。
だから惜しみ無く愛を注げる。
何十年もキャラ愛を貫く人も出てきた。
それはそのキャラが、
変わらぬその人でいてくれるからである。
もし、そのキャラがまるで別人になってしまったら、
どうだろう。
たとえば絵師が変わる。CvVが変わる。
服や髪型が変わる。
結婚したりする。
腕が一本なくなる。
たぶんあのときほど愛を注げなくなるかも知れない。
キャラ愛は一目惚れに近い。
その一目惚れじゃないキャラになってしまったら、
キャラ愛はたぶん覚めるだろう。
キャラが変わってしまった、と嘆いて。
キャバ嬢やアイドルへの愛が覚めるときも同じだろう。
彼氏が出来たときだ。
正確には、自分へ向けられた美しい姿が、
もはや幻想でしかないと判明して、
こちらから認識するその人のキャラが、変わってしまったときだ。
愛は、永遠の感情である。
ただし。変化しないものへの感情である。
初恋の人がすっかり変わっていたら、
その恋情は覚める。
初恋の人がそれなりに歳を取りつつも、
本質的には自分の惚れたときのままだ、
と分かったら、あの時のときめきは、いつでも甦る。
変わってしまったものへは失望が、
変わらぬものへは愛が、
やって来るのである。
これは人間の特質かも知れない。
愛が最も尊い感情である、とは僕は言わない。
ただ愛の性質について、残酷な面もあることを書こうとしている。
二次創作に話を飛ばすと、
二次創作とは、キャラ愛であふれるものである。
そのキャラは、ストーリーの「どの時点」のキャラだろうか。
おそらくストーリー序盤ではなかろうか?
ドラマ風魔を例にとれば、
小次郎は、麗羅を失う前のキャラだろう。
壬生は、黒獅子を殺害する前のキャラだし、
絵里奈は、壬生出奔以前のキャラだろう。
キャラ愛は、一目惚れに近い。
つまりそのキャラの、初登場(第一印象)に近い部分に行われるのである。
(ヘタレキャラが成長したりしたら、
成長後にフォーカスがいくけど)
本題。
愛は、時間軸には注がれない。
すなわち、愛は変化しないものに注がれる。
ストーリーの本質は、時間的な変化のことである。
したがって、三段論法的に、
ストーリー愛はない。
このストーリーが好きなんだよ、
という話は滅多に聞かない。
このキャラが好きなんだ、
この設定がいいね、
この世界観がたまらない、
なんて聞くけど、
ここからここへの変化と起伏がいいんだよね、
なんて話は聞いたことがない。
みんな大好き、伏線とどんでん返しは、
変化の一部としてではなく、
「そういう設定だった」という、
「時間軸のないものとして認識される」ことが多い。
だから、ストーリーが好き、というより、
この「設定」が良かった、という解釈をされることが多い。
例外がひとつあるならば、
成長ものかな。
成長してゆくその姿が好き、というのはよくある愛情だ。
でもそれは「成長している状態」が好きという点では、
変化を好きになっているわけではないのだ。
ストーリーとは変化のことである。
変化前も、変化後も、変化しているときも、
複数の変化も、変化の順番も、
複数の変化の組み合わせも、
愛せるのがストーリー愛の定義だと言えそうだけど、
どうやら人の認識機構や記憶機構は、
そのようにはなっていないっぽいんだ。
だから、ストーリーが記憶に残らずに、
キャラ愛や世界観愛(変化しないもの)が残るっぽいんだ。
私たちは、ストーリーを作る。
つまり愛されない。
愛されるのは、変化前のキャラだけである。
不思議なねじれが、そこに起こっている。
2017年03月09日
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