2017年03月09日

キャラ愛はあっても、ストーリー愛はない

また極論をしてみる。

キャラ愛という言葉がよくある。
世界観への愛というのもあるだろう。
しかし、ストーリー愛というのは存在しない。

なぜか。


愛というのは、変わらぬものに捧げられるからである。

美しい女への愛は、
その女の加齢により新鮮さが失われた瞬間、
「劣化」として失われる。

キャラ愛というのは、
リアル世界ではなく、
どちらかというと二次元の世界での言葉だ。
二次元のキャラは劣化しない。
だから惜しみ無く愛を注げる。
何十年もキャラ愛を貫く人も出てきた。
それはそのキャラが、
変わらぬその人でいてくれるからである。

もし、そのキャラがまるで別人になってしまったら、
どうだろう。

たとえば絵師が変わる。CvVが変わる。
服や髪型が変わる。
結婚したりする。
腕が一本なくなる。

たぶんあのときほど愛を注げなくなるかも知れない。
キャラ愛は一目惚れに近い。
その一目惚れじゃないキャラになってしまったら、
キャラ愛はたぶん覚めるだろう。

キャラが変わってしまった、と嘆いて。


キャバ嬢やアイドルへの愛が覚めるときも同じだろう。
彼氏が出来たときだ。
正確には、自分へ向けられた美しい姿が、
もはや幻想でしかないと判明して、
こちらから認識するその人のキャラが、変わってしまったときだ。



愛は、永遠の感情である。
ただし。変化しないものへの感情である。

初恋の人がすっかり変わっていたら、
その恋情は覚める。
初恋の人がそれなりに歳を取りつつも、
本質的には自分の惚れたときのままだ、
と分かったら、あの時のときめきは、いつでも甦る。

変わってしまったものへは失望が、
変わらぬものへは愛が、
やって来るのである。
これは人間の特質かも知れない。
愛が最も尊い感情である、とは僕は言わない。
ただ愛の性質について、残酷な面もあることを書こうとしている。


二次創作に話を飛ばすと、
二次創作とは、キャラ愛であふれるものである。
そのキャラは、ストーリーの「どの時点」のキャラだろうか。
おそらくストーリー序盤ではなかろうか?
ドラマ風魔を例にとれば、
小次郎は、麗羅を失う前のキャラだろう。
壬生は、黒獅子を殺害する前のキャラだし、
絵里奈は、壬生出奔以前のキャラだろう。
キャラ愛は、一目惚れに近い。
つまりそのキャラの、初登場(第一印象)に近い部分に行われるのである。
(ヘタレキャラが成長したりしたら、
成長後にフォーカスがいくけど)


本題。

愛は、時間軸には注がれない。
すなわち、愛は変化しないものに注がれる。
ストーリーの本質は、時間的な変化のことである。

したがって、三段論法的に、
ストーリー愛はない。


このストーリーが好きなんだよ、
という話は滅多に聞かない。
このキャラが好きなんだ、
この設定がいいね、
この世界観がたまらない、
なんて聞くけど、
ここからここへの変化と起伏がいいんだよね、
なんて話は聞いたことがない。

みんな大好き、伏線とどんでん返しは、
変化の一部としてではなく、
「そういう設定だった」という、
「時間軸のないものとして認識される」ことが多い。
だから、ストーリーが好き、というより、
この「設定」が良かった、という解釈をされることが多い。


例外がひとつあるならば、
成長ものかな。
成長してゆくその姿が好き、というのはよくある愛情だ。
でもそれは「成長している状態」が好きという点では、
変化を好きになっているわけではないのだ。


ストーリーとは変化のことである。
変化前も、変化後も、変化しているときも、
複数の変化も、変化の順番も、
複数の変化の組み合わせも、
愛せるのがストーリー愛の定義だと言えそうだけど、
どうやら人の認識機構や記憶機構は、
そのようにはなっていないっぽいんだ。

だから、ストーリーが記憶に残らずに、
キャラ愛や世界観愛(変化しないもの)が残るっぽいんだ。



私たちは、ストーリーを作る。
つまり愛されない。

愛されるのは、変化前のキャラだけである。
不思議なねじれが、そこに起こっている。
posted by おおおかとしひこ at 11:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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