リライトが何故難しいかというと、
西洋の手術のように、
見えてるものを切り貼って直しても、
そのような意図にならないからである。
ストーリーのリライトや編集は、
東洋医学のようなものだと、僕は考えている。
何故なら、場面というものは機能として存在していて、
機能の切り貼りは、物理的切り貼りとは異なるものだからだ。
とある場面をいくら直しても良くならないとき、
それよりずっと前の場面に原因があることがある。
その場面を削ったり変更すると、
ずっとあとのはずのその場面が、
急に生き生きしだすことがある。
これを僕は、ツボ治療のようなものだと言うわけである。
ツボの原理はよく分からないが、
気の流れのようなものがあり、
その結節点としてのツボがあり、
ツボをいじることで流れに影響を与え、
はるか先の流れが悪くなっているところを、
コントロールするわけである。
気ではなく、ストーリーの流れだと思えば、
これは効果的なリライトと同じことである。
そこに流れ込んでいる流れは何があるのか、
はるか前の流れが実は今に影響しているのではないか、
それを見極めることが、
ツボ的治療リライトの眼目である。
先日の後輩のショートフィルムの編集の話をまたするけど、
クライマックスの効果音を、
ギャグ的にするか真面目にするかでもめていた。
僕はそれはどっちでも良くて、
中盤の場面のネタバレのほうが気になっていた。
早くネタバレしすぎてしまっているから、
クライマックスがもの足りず、
ギャグ的効果音を足さないと満足できないのではないか、
という仮説を出し、
中盤のネタバレ場面カットを提案した。
で、それを削ったら、
クライマックスではそれがどっちでも良くなるほど、
夢中に見れるということが分かった次第。
クライマックスが原因ではなく、
中盤に原因がある、
ということは、
クライマックス前後の場面だけを見ていても分からない。
しかしながら、
観客は頭からそこまで順に見てきている、
ということを忘れてはならない。
クライマックスの前後だけを直して悩むのは、
実はその視点を忘れているわけだ。
今気になるそのことは、
その場面が原因ではない可能性がある。
ある場面を大分まえに、
削ったり足したりするだけで、
そのものが全く別のものに見える可能性がある。
モンタージュ理論である。
モンタージュは、直前の場面だけではない。
それ以前の全てが、その場面へのモンタージュ効果を及ぼしている。
その流れが視覚化されるといいんだけど、
そうもいかないのが難しいところ。
リライトを散々やって、
結局最初のバージョンが一番良かったなんてことはよくあるが、
それはこのような、
巨視的なツボ的治療の可能性すら試さずに、
疲れてリライトを諦めただけかも知れない。
ある場面を足したら?
と想像するのは難しいので、
ある場面をカットしたら?
と想像するのはまだ簡単だ。
頭からそれを見たときに、
最後にそれが効果的かどうかを、
一度通しで比較してみよう。
映画の編集なら二時間かかるが、
頭の中の再生ならもう少し楽。
(へとへとになるけどね)
ある場面とある場面の繋がり。
これだけは、体感で味わってみるしかないのである。
どこがツボになっているか見極めるのは、
経験かなあ。
ストーリーの構造的な致命ポイント
(そこを外したらガラッと変わってしまう部分)が、
大抵そうなってることが多いね。
2017年03月12日
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伏線の張り方がバレバレだったってことでしょうか。
伏線だけとも限りません。
なんとなく分かっちゃうことだってあります。
ネタバレは、「予測のつかないこと」の真逆のつまらなさのことです。