2017年03月12日

編集やリライトは、ツボ治療のようなもの

リライトが何故難しいかというと、
西洋の手術のように、
見えてるものを切り貼って直しても、
そのような意図にならないからである。

ストーリーのリライトや編集は、
東洋医学のようなものだと、僕は考えている。
何故なら、場面というものは機能として存在していて、
機能の切り貼りは、物理的切り貼りとは異なるものだからだ。


とある場面をいくら直しても良くならないとき、
それよりずっと前の場面に原因があることがある。
その場面を削ったり変更すると、
ずっとあとのはずのその場面が、
急に生き生きしだすことがある。

これを僕は、ツボ治療のようなものだと言うわけである。

ツボの原理はよく分からないが、
気の流れのようなものがあり、
その結節点としてのツボがあり、
ツボをいじることで流れに影響を与え、
はるか先の流れが悪くなっているところを、
コントロールするわけである。

気ではなく、ストーリーの流れだと思えば、
これは効果的なリライトと同じことである。

そこに流れ込んでいる流れは何があるのか、
はるか前の流れが実は今に影響しているのではないか、
それを見極めることが、
ツボ的治療リライトの眼目である。


先日の後輩のショートフィルムの編集の話をまたするけど、
クライマックスの効果音を、
ギャグ的にするか真面目にするかでもめていた。
僕はそれはどっちでも良くて、
中盤の場面のネタバレのほうが気になっていた。
早くネタバレしすぎてしまっているから、
クライマックスがもの足りず、
ギャグ的効果音を足さないと満足できないのではないか、
という仮説を出し、
中盤のネタバレ場面カットを提案した。
で、それを削ったら、
クライマックスではそれがどっちでも良くなるほど、
夢中に見れるということが分かった次第。

クライマックスが原因ではなく、
中盤に原因がある、
ということは、
クライマックス前後の場面だけを見ていても分からない。

しかしながら、
観客は頭からそこまで順に見てきている、
ということを忘れてはならない。

クライマックスの前後だけを直して悩むのは、
実はその視点を忘れているわけだ。


今気になるそのことは、
その場面が原因ではない可能性がある。
ある場面を大分まえに、
削ったり足したりするだけで、
そのものが全く別のものに見える可能性がある。
モンタージュ理論である。

モンタージュは、直前の場面だけではない。
それ以前の全てが、その場面へのモンタージュ効果を及ぼしている。
その流れが視覚化されるといいんだけど、
そうもいかないのが難しいところ。

リライトを散々やって、
結局最初のバージョンが一番良かったなんてことはよくあるが、
それはこのような、
巨視的なツボ的治療の可能性すら試さずに、
疲れてリライトを諦めただけかも知れない。


ある場面を足したら?
と想像するのは難しいので、
ある場面をカットしたら?
と想像するのはまだ簡単だ。

頭からそれを見たときに、
最後にそれが効果的かどうかを、
一度通しで比較してみよう。

映画の編集なら二時間かかるが、
頭の中の再生ならもう少し楽。
(へとへとになるけどね)


ある場面とある場面の繋がり。
これだけは、体感で味わってみるしかないのである。
どこがツボになっているか見極めるのは、
経験かなあ。
ストーリーの構造的な致命ポイント
(そこを外したらガラッと変わってしまう部分)が、
大抵そうなってることが多いね。
posted by おおおかとしひこ at 19:22| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
中盤のネタバレ、というのは
伏線の張り方がバレバレだったってことでしょうか。
Posted by ルーミス at 2017年03月20日 08:38
ルーミス様コメントありがとうござます。
伏線だけとも限りません。
なんとなく分かっちゃうことだってあります。
ネタバレは、「予測のつかないこと」の真逆のつまらなさのことです。
Posted by おおおかとしひこ at 2017年03月20日 14:42
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