2017年03月13日

この監督は、音楽というものを分ってないんじゃないだろうか(「ラ・ラ・ランド」評)

作品賞を逃すのは当然だ。
全体としてはたいした作品じゃなかった。
ワンカットの撮影技法はすぐれていたけど、
ただそれだけである。

そもそもミュージカルの癖に、
楽曲が良くないのはどういうことだ。
で、「セッション」のときにも思ったことなんだけど、
この監督、音楽のことを、分ってないんじゃね?
(以下ネタバレ批評)



全部だめだったわけではない。
僕が号泣してしまった曲がひとつだけある。

ヒロインがオーディションで歌った曲。
おばさんがセーヌ川に飛び込んだ狂気の話。

それだけだと普通のことだったが、
「それが私が女優になった理由」という最後の一行が、
たまらなく良かった。
普通に生きてたら、バカにされることをやる、
その狂気こそが、スクリーンの向こう側には必要なものだ。
どうしてこの曲がそんなに泣けるのだろう。
それは、この曲が、
「心の中のうずまく感情を表現したもの」だからだと思う。

たとえば(フジのエンディング改編で話題の)アナ雪の、
テーマソングがなぜ心に響くのか。
それは、「これでいいの。これが私なんだ。少しも寒くない」と、
これ以上ない濃さで、「本当の気持ち」を歌っているからである。

歌は心。
そんな基本的なことである。
歌というのは、本当の気持ちを言うためにある。

言うだけだとなんだか気恥ずかしいから、
メロディーに乗せるのである。
メロディーに乗せることで、
ただ言うだけでは気恥ずかしいものが、
堂々たるエンターテイメントになるのである。

そして、ミュージカルというのは、
それを競うジャンルの映画である。



どんな気持ちを、
どのような歌にして、
どういう映像で表現するか。

たとえば傑作「ズートピア」の最初の歌では、
「都会に出てゆく若者のわくわくした気持ち(そして等量の不安)」
を歌い表現した。
一言で言えば「上京歌」だ。

あるいは傑作「レ・ミゼラブル」のラストでは、
フランスの自由は、
「革命で死んでいった者たちの上にある」
ことを歌い、現在の我々と登場人物たちを直接結びつけた。

あるいは傑作「ムトゥ踊るマハラジャ」のオープニングでは、
主人公ムトゥがいかにスーパースターであるかを、
滔々と歌い上げているようなものだ。
(いわゆるキャラソン・ヒーローソングだ)


ただ台詞を言うよりも、
音楽をかけながら言う方が強くなる。

無言で、音楽で語る方がもっと強い。

さらに、韻文形式で、音楽もかかり、
原始的なダンスも加わる、
ミュージカル的表現が、
映画の中では最も感情を強く表現できる。

ミュージカルとは、
それを手段として利用するジャンルだ。
(歴史には疎いが、オペラの誕生のようなことかな)


感情というのは、
複雑であるよりは、
単純な方が強い表現になる。

事実、
二人が恋に落ちる、夜景の見える丘でのダンス
(ポスターにもなっている、この映画のイコン)は、
なかなかに強い表現だったではないか。
(うっとりするほどの出来ではなかったが)


さて本題。

この監督は、「セッション」の時にも思ったのだが、
音楽を何か技術のようなもので見ている気がする。
「音楽はことばのないことば」だと僕は思うのだが、
彼にとっては、
音符がただ流れていくだけのものに見えているような気がするのだ。

たとえば、
居酒屋でかかっているBGMの中に、
突然、爆風スランプの「玉ねぎの下で」がかかったとしよう。
他の人にはただの過去の流行歌にすぎないかも知れないが、
この曲は僕にとって、高校時代の文通相手のことを思い出させる、
平静ではいられなくなる曲のひとつだ。
音楽とは、そのようなものだ。
感情と、切っても切れないものなのである。

そんな風に彼は見えていない。
「セッション」のドラムは、
ただの正確なリズムマシーンで、
教師の音楽への熱い思いはわかるけど、
それと「演奏する曲」の感情が、つながっていないような気がした。

今回の男のジャズへの思いも十分に描かれていて、
それはとても良かったし、
演奏したくない曲で金を稼ぐのも、
とてもよかった。
しかし、
本当に彼がやりたいジャズ、
「かけあいになったり、支配しあっている」ジャズが、
彼の生き方や演奏から、
まったく見えてこなかった。

ラストに彼が弾く曲は、
「二人の出会い」を意味する曲であり、
彼がやりたかったジャズを意味する曲ではない。
とすると、
「音楽自体はなんの意味があってもいい曲」
ということになってしまうのだ。
(音楽にうといのであれだが、
誰もがしってる何かの感情を意味しているテーマ曲だったらすいません。
ひょっとすると彼は音楽に詳しすぎて、
その曲自体の紹介を忘れているのではないか、
といぶかるべきか?)


音楽はだから、「セッション」でも、
この映画でも、
ただの小道具になってしまっている。
人間の強い感情の爆発であるミュージカル表現が、
ただのBGMになってしまうのである。
居酒屋でかかっている、知らない曲のように。


ミュージカル、というのを差し引いても、
今回のストーリーは、
単純すぎやしないか。

  ジャズの店を開きたい男と、
  女優になりたい女が出会い、
  偶然に何回も出会って、
  互いの情熱を知るうちに恋に落ち、
  男は金のために嫌々売れる音楽の仕事をして、
  売れっ子になってしまい、
  女の方は売れなくて、
  だめな一人芝居をやって自滅する。
  女はそれでなぜかチャンスをつかむ。
  五年後、偶然再会した時、
  女は夫も子供もいる成功した有名女優で、
  男の方は、孤独に約束のジャズの店を構えていた。
  たがいに夢はかなったが、
  二人はそれっきり会わなかった。
  (デジタルの時代だから、
  フェイスブックでその後つながったのかも知れないが)

たったこれだけの話だ。
スカスカではないか。
月9みたいや。

あれだけ、「狂気こそ演じる源泉」と歌った女が、
あっさり店をあとにしたのもおかしなことだ。
なんや、金持ちのダンナと子供をとるんか、
とがっかりした。
しかしラストに夫を捨てて、キスをしてハッピーエンドにしたとしても、
名作にはほど遠かっただろう。

なぜなら、
その感情を爆発させるに足るストーリーが、
全くもって月9的だからである。
夢のある話、というにはリアリティーがあり
(その情熱において)、おとぎ話まで行ききっていない。
リアルな話にしては、御都合にすぎる。


前記事でツボの話をしたけど、
ラストシーンでどっちの結末にしようが、
作品の価値はたいして変わらないということは、
問題は、序盤にこそあるのかも知れない。
彼女がどうしても女優になりたい理由、
彼がどうしても「死にかかっている」ジャズを
再興したい理由に、
序盤のうちから感情移入させるエピソードがあれば、
中盤以降の展開や、
ラストシーンへの思い入れも、
違っただろう。

今のところだと、
二人は夢をかなえたが、それが何か?
みたいな、中途半端な結論になってしまっている。
これが、
人生が両方とも成功していなかったりすると、
「大人の話」として面白くなるのかも知れないのだが、
月9みたいに二人とも夢を叶えていて、
なんだか、リアリティーをどこらへんにおいていいのか、
いまいちふわふわしているのである。


さて、じゃ、テーマの話をしよう。
この映画のテーマは、なんだったろう?
すっきりとした結論がなかった気がする。
だから、「ただ二人の人生ショーを見ただけ」
な気がするのだ。
彼らの人生から、
何も持って帰れるものがなかったといえよう。

夢を叶えるには犠牲が必要だ、そういう話でもなかった。
そういう話なら、劇中の重大な決断に、その話が関係してくるからである。
セーヌ川に飛び込んだ狂気だけは、一生忘れられぬお気に入りとなったが。



テレビが少し前に、
「テレビは良かったよね」という番組を、
やたら作っていた気がする。
今思えば、それはテレビの灯が消える、
ろうそくの最後のゆらめきだったような気がしてならない。

ハリウッド映画にとっての、
そういうものになって欲しくないものだ。



今、アメリカは明るくないのだろう。
移民問題や、資本主義の限界が見え隠れしている。
そんな時に月9のようなものが、
時間稼ぎにはならないと思う。
映画の限界はこのへんなのか。
いやいや、
まだまだ映画のポテンシャルはあると思う。
ただ、金が集まりにくくなってるだけさ。
(この監督はユダヤ人だと聞いて、だから金が集まったのか、
と斜め読みしたくもなるわな)

アメリカは、自らが作り出した「伝統」の、
継ぎ手を探しているのかもしれない。
伝統が次々に消えてゆく日本のことを調べて、
絶望してみるといいよ。
posted by おおおかとしひこ at 13:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 >この監督はユダヤ人だと聞いて、だから金が集まったのか、と斜め読みしたくもなるわな

 「ラ・ラ・ランド」の脚本は2010年には出来上がっていたものの、スポンサーがつかず(一度話が進んだが、脚本の改変を求めれる等して断念)、セッションの成功でようやく出資が決まったそうです。

 また、セッションもやはり最初は資金が集まらず、数分のデモフィルムを作って公開し、スポンサーを募ったとのことです。

 先生がいつも書かれているような、プロデューサーに脚本の良さが分からず、苦労して売り込み、評価を勝ち取って作られた作品です。
(ただし、作られる前に脚本の良さがわかりづらい作品であることは確かです。先生の仰る通り、大筋のストーリーは決して秀逸とは言えません。絵作りや歌曲によってかなりの部分をカバーしている)

 テーマは「ふたつは選べない」ではないでしょうか。
映画開始20分前後で「サンバとタパスの店」に対して「どちらかに集中しろ」と言うシーンがあります。
 そしてラスト。「ふたつを選んだ」ifシーンが繰り広げられた後で、今の道を選んだふたりが納得して別れるシーンで終わります。

 映画を見て感動するかどうかは個人の問題ですし、作品賞を取れる作品ではなかったかもしれません。
 だからといって、作品が作られた過程も調べずに、このような発言によって毀損されてよい作品ではないでしょう。

 常に熱意をもって映画作りを語られる先生ならば、適当に作られた作品かそうでない作品かは出来の良し悪しに関わらず、理解できるはずです。

(余談ですが、キーボードに関しては既存のシステムに囚われずに新しくよりよいものを創造されるのに、映画に関してはご自分の価値観から逸脱する作品にあまり理解を示されないのを前から不思議に思っていました。「セッション」「ラ・ラ・ランド」は先生がどこかで仰っていた「映画で否定形は書けない」をやってしまっている映画なので、微妙なお気持ちになられてしまうのではないでしょうか。
 映画においても、キーボードと同じように既存の価値観に慣れてしまった者には不適当と思われるものが台頭することがあってもよいと思います。
 ちなみに、私は最初からキーボードの運指を正規のポジションで身に着けてしまったため、いまから新しいキーボードの配置に慣れることは難しいです。しかし、自分の理想のキーボード配列を追い求める先生はとても生き生きとして、楽しそうに見えます)

 長文申し訳ございません。
 それでは、失礼します。
Posted by tk at 2021年05月27日 22:23
>tkさん

あまり面白くなかった作品なので、経緯についてはネット情報を鵜呑みにした程度です。
ミュージカル作品にはもっと面白い、人生を謳歌すべき名作が沢山あります。
「雨に唄えば」「メリーポピンズ」あたりから「レミゼラブル」あたりを超えたわけじゃないし、
ハリウッド内幕ものでいえば「サンセット大通り」「イヴの凡て」
を凌駕するほど名作とは思えませんでした。

昨今の中では良作レベルですけど、あそこまで持ち上げるほどじゃない。
そのずれが不自然に気になりました。

もし「ふたつを選べない」がテーマだとすると、
冒頭のロサンゼルス渋滞は不要だと思います。
つまり、テーマに対して適切な構造をしていないと考えます。
セッションも同様です。
だからシナリオがとても雑に見えました。

もう少し大きな文脈で言えば、
もはや映画は一番の物語足り得ないのではないかと、
薄々考えています。
だってベルセルクの方が面白いし。(ジャンルは全く違うけど)
漫画ベルセルクより面白い映画じゃないと、
僕はもう「おもしろい!」と手放しで言わないだろうなあ。

映画は今確実に曲がり角に来ていて、
過去の名作を超える頻度が減っているような気がします。
なぜなら、過去の名作を超えることよりも、
今目の前の興行を成立させることが目的になっているからです。

過去の名作を超えるぞ、と渦巻いているのは、
一部の漫画と、自作キーボード界隈ですかね。
僕はその超え続けるエネルギーが一番好きなのかもしれません。
他もあるかもしれませんが。
Posted by おおおかとしひこ at 2021年05月27日 23:05
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