最近の若いやつは、点の意識しかなくて、
線の意識がないんじゃないか。
なんとなくそう思っているのだが、
どうやらそのようかもしれない。
最近身近に見るCMの企画が、
ぜんぶ点的である。
前ふりと落ちの関係がつくれてなくて、
前ふりだけで終わっているとか、
ただ面白い絵だけで、
一発ネタとしては面白いけれど、
落ちがないからふわっとしてるとか、
そういうものが増えて来た気がする。
これは間違いなく、ネットのせいではないかと思うのだ。
ネット(動画)は、ほとんど点である。
おもしろければ良くて、
前ふりとか落ちとかいらない。
前ふりからのその落ちという意外性や、
裏切りの面白さも必要ない。
こういうのに慣れれば慣れるほど、
「落ちとかいらないから」
「一枚絵でいいから」
と考えるようになってしまうのでなないか、
と思ってしまったわけだ。
あるものの流れや起承転結の面白さではなく、
その場の盛り上がりとか、
落ちはどうでもいいから瞬間風速が大事とか、
そういう感じ。
PPAPを見たときにそれを強く感じた。
前ふりや落ちとかいうものではなくて、
恰好とか、表情とか、言い方とか、キャラクターが面白ければ、
それだけで「面白い」と言ってしまう感じ。
それは、ストーリーの否定、
ということに繋がる。
政治的態度のようなことではなく、
無意識な無知の結果としてだ。
状況や事情があり、
反対されることもあり、
そういうものに対して、
どういう決断や行動をし、
それが何をもたらし、
それはどういう意味であったか
(自分にとっても相手にとっても社会にとっても)、
という「線」で何かを評価しよう、
ということが途切れ、
ただその場さえ良ければ良い
(自分さえよければいい、も含む。
相手は自分と違う、という前提に立てない、
不寛容の原因かもだ)、
という「点」主義になってきている。
ツィッターで動物が吠えているような、
点の叫び(いいとか悪いとか、好きとか嫌いとかの、
動物的感情的反応だけで、知性による解釈とか、
知的留保とか、そういう難しいことはない)
だけが幅を利かせるから、
線のコミュニケーションが難しくなったのだろうか。
いや、元から人類の平均的知性はその程度だったのか。
そこのところはよく分らない。
(話は違うかもだが、
若いやつと予定を合わせようとして、
「〇日はどうか」と提案して、
「その日はダメ」で終わることがすごく多い。
女を口説いてる時ではなく、仕事の話で、である。
その日がダメなら別日を再提案するのは、
線でスケジュールを捉えていれば当然だと思うのだが)
しかし現状がそうなのだとしたら、
その波が好むものが「受ける」のが当然の帰結である。
菊池成孔氏の「ラ・ラ・ランド」評を拝見した。
http://realsound.jp/movie/2017/03/post-4278.html
http://realsound.jp/movie/2017/03/post-4359.html
多分、同じことを言おうとしているのではないかと感じた。
この映画の監督、デミアン・チャゼルは、
点の刺激をほしがり、
線の「人生の意味」みたいはものなどナンセンス
(あるいは難しくてよく分らない)
という人たちに対して、
頭にガツンと食らわせてふらふらにする技術と、
ラストに意味ありげなどんでん返しの二つの「点」
でもって、
夢中にさせる才能があるのではないだろうか。
僕は昔から、
映画には点の魅力(ガワ)と、
線の魅力(中身)の、
両方がそろってはじめて名作たりえる、
とよく議論している。
点しか見ない観客は、
感情を言葉にしていない「ただの歌と踊り」を見て、
刺激だけを受け取り、
一見ロマンティックなムード(状態)
だけを受け取るにすぎず、
人生の選択や、どう生きることが正解なのか、
という線の物語性に入りこんだり、
自分の生き方に照らして考える、
なんて見方を、もうしていないのかも知れない。
ひらたくいえば、「感情移入」(第三者の物語を、
まるで自分のことのように感じ、考えること)
なんてしてなくて、
他人のする「芸」を、遠く離れたところから、
眺めて感想だけ言っているのかも知れない。
それは何故かと言うと、
人生があまりに不可解で、
理性で世の中を理解し、
知性の範囲でより人生をよくすることが、
大して出来ない、と、
人類が無意識で分ってしまったからかも知れない。
だったら、刹那的に、刺激の点だけで生きていればいいじゃないか、
と。
それはすなわち、
理性や叡智の、敗北なのかも知れない。
理性や知性とは、継続する線的思考からもたらされる。
点の感情を俯瞰したり、様々な角度から比較検討することで、
知性がはたらく。
そういうものを駆使しても、
たいして幸せは訪れないと、
周りを見て無意識に思ってしまったのかも知れない。
だから人類は、考えるのをやめ、
点の刺激を求める動物になってしまった、と。
なんだか昔のSFみたいなことを書いている。
ほんとにそうかな。
でも、周りはどんどんそうなっていって、
なんだか継続して考える僕が、
異星からやって来た人のような目で、見られている気がする。
自分のことばや実感で思考せず、
データやオピニオンリーダーの意見をコピペしかしない人は、
だいぶ増えているような気がする。
(だって、映画や小説の宣伝文句が、
その内容じゃなくて、
「〇〇第一位」とか「すごい」だぜ?)
さて。
結論が見えなくなった。
その現代で、
線である脚本について考えることは、
どういう意味があるんだろう。
脚本は、線でなくなってきている。
くだらない邦画(たとえばシンゴジラ)
を見れば明らかである。
脚本や小説や演劇は、
線でありつづけるべきだろうか。
それとも点に解体されるべきか。
アカデミーは、「ラ・ラ・ランド」に、
脚本賞も、作品賞も与えなかった。
それを、励みとしたい。
ところで、作品賞を間違いかけた、例の事件。
これ、わざとじゃね?
「世間では認められても、我々はこれを認めない」
という強烈なノーの意志表示ではなかろうか。
京都人なら間違いなく、
そういう嫌味をぶっこんでくるよな?
2017年03月14日
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