僕は手で字を書くときは、
頭の中で声を出すことはない。
思考を直接手から出してる感覚だ。
でも、フリック入力と、ローマ字入力をしてるときは、
頭の中で声を出しながら入力している、
と発見した。
早口言葉を打つとき、
苦手なやつの入力が凄く遅いとわかった。
あめんぼ赤いなあいうえお、
で有名な北原白秋の「五十音」を、
タイピングの練習教材として、
ここ二三日使っている。
五十音全部出てきて、
それを使った単語を網羅しているからだ。
ところでこの詞は、
アナウンサーや役者や声優などの、
声の職業の発声練習に使われるので有名だ。
滑舌練習として、やはり五十音が揃っていて、
使いやすいのだろう。
そして僕はローマ字入力派だ。
ローマ字入力は、「音」を入力する。
僕は脚本という、最終的には音で発声されるものの書き手なので、
だから効率的には不利だと言われるローマ字入力だとしても、
気にしないことにしている。
ここまで前提。
ここから発見。
だから、早口言葉を打つのが遅いんですよ。
生麦生米生卵。
李も桃も桃のうち。
東京特許許可局。
バスガス爆発。
今フリックで打ってるのだが、
やっぱり遅い。
日本語の表記は、
表意文字である漢字と、
表音文字であるかなの、
漢字かな混じり文である。
そして、表記された日本語を読むときも、
考えるときも、
ブロックで分けて考える。
表記上の手がかりは、漢字ブロックと繋ぎのひらがなで、
発音上の手がかりは、間とイントネーションだ。
たとえば東京特許許可局なら、
東京(特許(許可))局
みたいな構造を表記から読み取るし、
頭の中でもそういう構造で考える。
ところが、発音上は、
東京と以下の言葉に間をあけることはほとんどないし、
あけるとしたら、東京特許-許可局のような、
息継ぎポイントになってしまって、
おそらく「なに?」と、もう一度聞き返されるような言葉だろう。
つまりこの言葉は、
書き言葉よりの言葉で、
話し言葉よりの言葉ではない。
そもそも早口言葉というのは、
書き言葉上は自然な言葉だとしても、
話し言葉にすると発音困難で、聞き取って理解するのも困難な、
言葉を集めたものだと思う。
ひらたく言うと、言文一致がずれた言葉、ということだ。
僕は、手書きで書くときは、
書き言葉として書く。
だから早口言葉を書くだけなら、苦労しない。
ところが、
ローマ字入力は頭の中で音として発語してから入力している。
黙っているが声を出している。
だから、早口言葉が苦労すると、発見した。
こういうことは、
学術的に調査されてるのだろうか。
よく分からない。
それともみんな知ってたのこれ?
漢直入力の人はどうなんだろう?
(表意文字入力だから、早口言葉に影響を受けない)
かな入力は?
(表音文字入力だから、早口言葉を打つのが遅い)
()内は僕の仮説。
ツイッターや掲示板の発言は、
「言う」であって「書く」ではない。
知性ではなく感情だ。
だから炎上するしバカ発見器なのだ。
たとえば、
「そういうことを書くな」とは誰も言わず、
「そういうことを言うな」と皆は認識している。
(さすがに、「そういうことを思うな」とは発言されない)
そういう現象は、
フリックもしくはローマ字入力が主流であることと、
関係するのではないだろうか?
これが手書きであるならば、
こんなことは起こらなかったのではないか?
(たとえ筆跡で身元バレがないとしても。
たとえばゲバ文字は、筆跡が特定されないための、
一種のフォントとして機能する)
ということで、フォントで語るってどういうことだろうか、
という次の疑問が湧いてくる。
印刷技術の発展によって、
広く拡散させるのに、フォントは欠かせないものだった。
ワープロをはじめて触ったとき、
「印刷された本みたい」と皆は思った。
それは、「本の権威を借りれる」という、
自分が拡大したような錯覚を生んだ。
フォントの権威を借りて、たいしたことを書いた気になること。
フォントの存在価値は、今やそのへんにあるような気がする。
デジタル時代になり、
書く言葉でもない、言う言葉のレベルで、
書く言葉の権威のフォントで、
大量に頒布されている。
人間の知性は、どこへいくのだろうか。
まあいいや。
納戸にぬめって何粘る。
ちなみに、
黙読をするとき、
頭の中で声がする人と、しない人がいるらしい。
僕はしない人。
つまり、書き言葉は、話し言葉と分離している人である。
そのへんが、このへんのことに関係しているような気がする。
2017年03月15日
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