2017年03月15日

滑らかな思考と散発的な思考

点と線の話、つづき。
つまりは、点と線は、思考が、
散発的か連続的かの違いである。

実はこれは、書き手の思考のことだ。
散発的な思考で書かれたストーリーは、点的で、
連続した滑らかな思考で書かれたストーリーは、線的だと考える。


私たちの思考は、
連続的か、散発的か。

散発的な思考が原始的であろう。
いろんなことをぱっと考える、
そういう感じだ。

それがひとつの連なりを持ち始め、
はじめから落ちまでの秩序を作ることが、
連続的な思考である。
その連続性に不要な散発的思考は、除外され、
その連続性に寄与する思考のみが、次々に接続される。
それらはよどむことなく勢いがあり、
停滞せず、
クライマックスになだれ込んで、一種の決着を見る。
それが一連の思考の、「結論」である。
その結論への過程が納得のいくものなら、
その論考は正しい。
その結論が世の中に価値あることならば、
その論考は価値がある。
正しくて、価値がある思考だけが、
人類にとって意味がある。
論文や論というのはそういうものだ。

そして、ストーリーも同じだと思うのだ。

ただし、芸術に属するストーリーというものは、
「新しいこと」という更なる使命をクリアしなければならない。


ストーリーが書けない、
と悩む人がいる。

そういう人は、まず論文を書いてみなさい。
そもそも、連続した思考が出来てないんじゃないかな?
散発的な思いつきだけで話を進めて、
結論が行方不明になって、
途中で挫折したり、
明らかに途中に論の飛躍があっておかしなことになっている、
そういう論しか書けないんじゃないか?

学術論文じゃなくていいよ。
小論文でもエッセイでもいい。
自分の思うことを、結論にむけて連続的に思考する、
という基本的なことが、
もしかしたら出来てないんじゃ。

そう思ったのだ。


それが出来てはじめて、
奇異な思考とか、突飛な発想とか、
独特の考え方とかを、操れるようになるのではないか。
ただ奇異で突飛で独特なだけなら、
全裸で秋葉原の交差点で包丁振り回せばいいだけだからな。
それは散発的な思考である。


連続的思考に関しては、
小論文が課題となる、
高等教育レベルだと思う。

なお、テレビが対象とする年齢は中学生だってさ。
テレビがバカの見るもの、
散発的で感情的なものになるのは当然だ。
(勿論そう考えていない大人がつくる番組も、
沢山あるだろう。あることを望む)

高等教育を、あなたたちは本当にクリアしたのか?
クリアしてるのなら、ストーリーの才能の、土台は出来ている。
クリアしてないのなら、
ストーリーの才能があったとしても、
それを発揮する土台がグズグズになっているんだぜ。



ちなみに、
女的思考と、男的思考がある。
右脳的なものと、左脳的なものだ。
感覚的なものと、論理的思考のものだ。
音楽や絵と、論理性や整合性のものだ。
ストーリーは総合芸術である。
どちらも出来ないと、だめである。

バカな女は、散発的で感情的で支離滅裂で、
バカな男は、論理ばかりで感覚を伴わず、頭が硬い。

散発的な思考なのは、つまり、左脳が弱い。
鍛えなはれ。

散発的なストーリーにしかならないのは、
連続的な一連の思考というものが、
出来ないからではないか、
という説を出してみた。



さらに仮説。
「ララランド」を作った人も、
見て感動するバカも、
散発的な思考ばかりで、連続的な思考が出来ない人か。
あるいは、連続的な思考を、
音楽の力で麻痺させられた人か。

右脳的というと右脳に失礼なので、
左脳欠如、という言い方にしてみよう。


今の映画界には、左脳が欠如している。
ひょっとすると、そういう見方が出来るかもしれない。
映画のメインターゲットは、女子供?
女よ、バカにされてるぞ。バカにする側もバカだ。
posted by おおおかとしひこ at 12:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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