点と線の話、つづき。
つまりは、点と線は、思考が、
散発的か連続的かの違いである。
実はこれは、書き手の思考のことだ。
散発的な思考で書かれたストーリーは、点的で、
連続した滑らかな思考で書かれたストーリーは、線的だと考える。
私たちの思考は、
連続的か、散発的か。
散発的な思考が原始的であろう。
いろんなことをぱっと考える、
そういう感じだ。
それがひとつの連なりを持ち始め、
はじめから落ちまでの秩序を作ることが、
連続的な思考である。
その連続性に不要な散発的思考は、除外され、
その連続性に寄与する思考のみが、次々に接続される。
それらはよどむことなく勢いがあり、
停滞せず、
クライマックスになだれ込んで、一種の決着を見る。
それが一連の思考の、「結論」である。
その結論への過程が納得のいくものなら、
その論考は正しい。
その結論が世の中に価値あることならば、
その論考は価値がある。
正しくて、価値がある思考だけが、
人類にとって意味がある。
論文や論というのはそういうものだ。
そして、ストーリーも同じだと思うのだ。
ただし、芸術に属するストーリーというものは、
「新しいこと」という更なる使命をクリアしなければならない。
ストーリーが書けない、
と悩む人がいる。
そういう人は、まず論文を書いてみなさい。
そもそも、連続した思考が出来てないんじゃないかな?
散発的な思いつきだけで話を進めて、
結論が行方不明になって、
途中で挫折したり、
明らかに途中に論の飛躍があっておかしなことになっている、
そういう論しか書けないんじゃないか?
学術論文じゃなくていいよ。
小論文でもエッセイでもいい。
自分の思うことを、結論にむけて連続的に思考する、
という基本的なことが、
もしかしたら出来てないんじゃ。
そう思ったのだ。
それが出来てはじめて、
奇異な思考とか、突飛な発想とか、
独特の考え方とかを、操れるようになるのではないか。
ただ奇異で突飛で独特なだけなら、
全裸で秋葉原の交差点で包丁振り回せばいいだけだからな。
それは散発的な思考である。
連続的思考に関しては、
小論文が課題となる、
高等教育レベルだと思う。
なお、テレビが対象とする年齢は中学生だってさ。
テレビがバカの見るもの、
散発的で感情的なものになるのは当然だ。
(勿論そう考えていない大人がつくる番組も、
沢山あるだろう。あることを望む)
高等教育を、あなたたちは本当にクリアしたのか?
クリアしてるのなら、ストーリーの才能の、土台は出来ている。
クリアしてないのなら、
ストーリーの才能があったとしても、
それを発揮する土台がグズグズになっているんだぜ。
ちなみに、
女的思考と、男的思考がある。
右脳的なものと、左脳的なものだ。
感覚的なものと、論理的思考のものだ。
音楽や絵と、論理性や整合性のものだ。
ストーリーは総合芸術である。
どちらも出来ないと、だめである。
バカな女は、散発的で感情的で支離滅裂で、
バカな男は、論理ばかりで感覚を伴わず、頭が硬い。
散発的な思考なのは、つまり、左脳が弱い。
鍛えなはれ。
散発的なストーリーにしかならないのは、
連続的な一連の思考というものが、
出来ないからではないか、
という説を出してみた。
さらに仮説。
「ララランド」を作った人も、
見て感動するバカも、
散発的な思考ばかりで、連続的な思考が出来ない人か。
あるいは、連続的な思考を、
音楽の力で麻痺させられた人か。
右脳的というと右脳に失礼なので、
左脳欠如、という言い方にしてみよう。
今の映画界には、左脳が欠如している。
ひょっとすると、そういう見方が出来るかもしれない。
映画のメインターゲットは、女子供?
女よ、バカにされてるぞ。バカにする側もバカだ。
2017年03月15日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック