逆説的に考える。
線と点について、ずっと考えてきている。
物語は線であるべきだ。
しかし短絡な思考は点でしかない。
だが、
線と線を比較して考えるのは、脳が追い付かない。
だから、線と線を区別するのに、
絵(点)を用いるとよい。
リライトをするとき、
勿論、線を色々といじるのである。
だけど、その線と前の線と、
どちらがどう違うかを捉えることは、
当の本人すら困難なことがある。
大抵は客観的になるのは難しく、
前の良くなかった感覚が、
直したことによって部分的に良くなったから、
全体も良くなったに違いない、
と思い込むことで作業は成立する。
(しかしそれは誤りであることが多いことも、
我々は良く知っているし、
しかし多くの場合正解であることも、
我々は知っている。
問題は、その基準が分からないことだ)
そこで、点の力を利用する。
新しく直すとき、
絵を新しくするとよい。
出来れば直したことが分かるような、
絵の直し方をするとよい。
台詞の言い方を直すだけでも、
ビジュアルを暗示するような直しにするとよい。
たとえば、
「シベリアみたいにさむいね」を、
「二月の京都みたい」に直したとしよう。
そうすると、
「シベリアと京都、どっちがいいかな」
と、迷うことが可能になるのである。
あるいは、
「二月の京都みたい」を「さむいね」に直して、
「京都アリナシ、どっちがいいかな」
と迷うことが可能になるのである。
これはピンポイントの直しだけれど、
流れの直しならさらにだ。
板付きからスタートする場面を、
華麗なる登場こみに直せば、
その絵があるかないかで、頭の中で区別できる。
ブロックのリライトをするとき、
流れAを象徴する絵と、
流れBを象徴する絵を作る。
なければBを作るときに、そういう場面に書き直す。
そうすると、
二つのバージョンを、
頭の中で比較できるようになるのである。
流れを二つ比較するのは、
なかなか困難である。
おそらく短期記憶でないと、頭の中での比較が出来ない。
だから流れを短期記憶に圧縮し、
二つを比較できる程度の大きさにしなければならない。
そして判断したら、元の大きさに解凍しなければならない。
その行程が、頭に物凄い負担をかける。
やりなれていない人は、
数回これらをやるだけでへとへとになるだろう。
(だから脚本打ち合わせというのは、物凄く疲れるし、
疲れたくない人は、好みだけで好き放題言い、
首尾一貫性が欠けることをいいがちである)
へとへとになるのが怖くて、あるいは嫌で、
あるいはその能力が低くて、
直したあとのほうがいいはずだ、
と、間違った判断をしたり、
パターンにはめてれば大丈夫だと、
ルーチンに逃げることは、
最も良くあることかも知れない。
(ルーチンやパターンは、作風ともいえるし、
新しいことへの挑戦から逃げているともいえる)
これは、「二つの流れを比較し、
どちらが全体にとって良いか」ということを、
頭の中で考えることは、
ほぼ無理であることを示唆している。
何故か。
流れのあるものの再生には、時間がかかるからだ。
一部の直しが的確かどうかは、
一部の流れ同士の再生を比較するだけではだめで、
全体の流れを二回再生して、
全体を把握しなければならない。
それを頭の中でやるには、
その流れ全体を再生する集中力が、
頭に負荷をかけすぎるのである。
ちなみに、CMという15秒ですら、それは起こる。
15秒のことすら、
人は頭の中で再生して、
一部の直しが全体にとってどう寄与するか、
頭の中で想像できない。
(正確には、我々監督は出来るが、
代理店の人やクライアントは無理である)
CMなら、
その場で演じてみれば、15秒で終わるから、
印象比較がわりと簡単だ。
編集室ならば2パターン作って、
実際に流して比較すれば検討できる。
ところが、長いものはそうもいかない。
映画なら、二つの比較に4時間かかる。
前のやつ、忘れてるよな。
小説ならもっと長いやつもあるだろう。
それのどちらがいいかなんて判断をするのに、
どれだけの時間をかければよいのだ。
二日ですむのか。
本当にやるべきことならちゃんとやるべきだが、
それだけの時間客観的な集中力を保てる人など、
そうそういない。
(多分いないんじゃないか)
だからリライトや編集は、
偶然成功していただけのことと、
偶然失敗していただけのものが、
混在するのではないだろうか。
「部分でいいと思ったが全体では失敗だった」のは、
目立つから記憶に残りやすいが、
「部分ではまずいが、全体にとって成功だった」のは、
記憶に残りにくい。
マーフィーの法則だ。
印象的なものしか記憶に残らない。
二つを絵で比較する、
という今回の方法論は、
「絵という時間軸を伴わないもの」の力を利用する。
絵は動かない。
再生時間はゼロである。
だから、紙の上のものの二つを比較することと同じなのである。
絵は概念になる。名詞になる。
だから二つを言葉でも比較可能になる。
二枚の絵の違いを、敏感に捉えることができることは、
我々人間の性質である。
(視覚細胞や視神経にその機構があることが分かっていて、
脳を介さずに神経系統だけで判定出来る。
勿論その機構を、パラパラマンガである、映画は利用している)
間違い探しは基本的な遊びだが、
それは、たとえば命に関わる異物を見つけ出すのに、
都合良く進化してきたことの名残だろう。
(そういう意味で、異物排除と、異物を設定して安心するいじめは、
本能的なものではないかと、僕は考えている)
まあ原理はいい。
それを利用してやればいい。
バージョンAとBの差を、
流れの差ではなく、
場面(絵)の差に落とし込むように、
書いていくとよい。
そうすればするほど、どっちがいいか、
引いた目で見やすい。
絵では区別がつきにくいものならば、
(たとえば動機が変わるとか、
順番が変わるとか)、
判定には、全流れの比較でしか判断できず、
判断を誤るかもしれない。(偶然成功する可能性もある)
これは、下手したら、
ダメな観客もそのように見ているかもよ、
ということを示唆している。
この映画とこの映画、どっちが良かったか、 というとき、
どっちの絵に気に入ったものがあったかで、
言ってるだけかもしれないぜ。
だから僕は「この映画のどこが良かったの?」
とよく聞く。
「絵がよかった」という人とは、深い話をしない。
多分流れとか線の話が出来ない人なんだな、
と距離をおく。
ララランドのどこが良かったのか、と聞いて、
オープニングのミュージカルとか、
ラストの目線の交換、とか、
絵で言える所を言う人は、
その程度にしか映画を観ていないか、
内容を理解しているのだが、絵でしか表現する手段を持っていないか、
どちらかである。
どちらにせよ、
我々は、
絵を媒介にしたコミュニケーションのほうが、
時間がかからないのは、確かだ。
それは多分、記憶整理とか、概念を扱うとかいう、
脳の何かに関係しているのは確かっぽい。
それと同様の精度で、
絵にした二つを比較すると、
客観的に外に出やすいよ。
2017年03月16日
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