2017年03月16日

話と話を区別するのは、絵

逆説的に考える。

線と点について、ずっと考えてきている。
物語は線であるべきだ。
しかし短絡な思考は点でしかない。

だが、
線と線を比較して考えるのは、脳が追い付かない。
だから、線と線を区別するのに、
絵(点)を用いるとよい。


リライトをするとき、
勿論、線を色々といじるのである。
だけど、その線と前の線と、
どちらがどう違うかを捉えることは、
当の本人すら困難なことがある。

大抵は客観的になるのは難しく、
前の良くなかった感覚が、
直したことによって部分的に良くなったから、
全体も良くなったに違いない、
と思い込むことで作業は成立する。
(しかしそれは誤りであることが多いことも、
我々は良く知っているし、
しかし多くの場合正解であることも、
我々は知っている。
問題は、その基準が分からないことだ)


そこで、点の力を利用する。

新しく直すとき、
絵を新しくするとよい。

出来れば直したことが分かるような、
絵の直し方をするとよい。

台詞の言い方を直すだけでも、
ビジュアルを暗示するような直しにするとよい。

たとえば、
「シベリアみたいにさむいね」を、
「二月の京都みたい」に直したとしよう。


そうすると、
「シベリアと京都、どっちがいいかな」
と、迷うことが可能になるのである。
あるいは、
「二月の京都みたい」を「さむいね」に直して、
「京都アリナシ、どっちがいいかな」
と迷うことが可能になるのである。


これはピンポイントの直しだけれど、
流れの直しならさらにだ。

板付きからスタートする場面を、
華麗なる登場こみに直せば、
その絵があるかないかで、頭の中で区別できる。

ブロックのリライトをするとき、
流れAを象徴する絵と、
流れBを象徴する絵を作る。
なければBを作るときに、そういう場面に書き直す。

そうすると、
二つのバージョンを、
頭の中で比較できるようになるのである。



流れを二つ比較するのは、
なかなか困難である。
おそらく短期記憶でないと、頭の中での比較が出来ない。
だから流れを短期記憶に圧縮し、
二つを比較できる程度の大きさにしなければならない。
そして判断したら、元の大きさに解凍しなければならない。
その行程が、頭に物凄い負担をかける。

やりなれていない人は、
数回これらをやるだけでへとへとになるだろう。
(だから脚本打ち合わせというのは、物凄く疲れるし、
疲れたくない人は、好みだけで好き放題言い、
首尾一貫性が欠けることをいいがちである)

へとへとになるのが怖くて、あるいは嫌で、
あるいはその能力が低くて、
直したあとのほうがいいはずだ、
と、間違った判断をしたり、
パターンにはめてれば大丈夫だと、
ルーチンに逃げることは、
最も良くあることかも知れない。
(ルーチンやパターンは、作風ともいえるし、
新しいことへの挑戦から逃げているともいえる)

これは、「二つの流れを比較し、
どちらが全体にとって良いか」ということを、
頭の中で考えることは、
ほぼ無理であることを示唆している。

何故か。

流れのあるものの再生には、時間がかかるからだ。

一部の直しが的確かどうかは、
一部の流れ同士の再生を比較するだけではだめで、
全体の流れを二回再生して、
全体を把握しなければならない。
それを頭の中でやるには、
その流れ全体を再生する集中力が、
頭に負荷をかけすぎるのである。


ちなみに、CMという15秒ですら、それは起こる。
15秒のことすら、
人は頭の中で再生して、
一部の直しが全体にとってどう寄与するか、
頭の中で想像できない。
(正確には、我々監督は出来るが、
代理店の人やクライアントは無理である)
CMなら、
その場で演じてみれば、15秒で終わるから、
印象比較がわりと簡単だ。
編集室ならば2パターン作って、
実際に流して比較すれば検討できる。

ところが、長いものはそうもいかない。
映画なら、二つの比較に4時間かかる。
前のやつ、忘れてるよな。

小説ならもっと長いやつもあるだろう。
それのどちらがいいかなんて判断をするのに、
どれだけの時間をかければよいのだ。
二日ですむのか。

本当にやるべきことならちゃんとやるべきだが、
それだけの時間客観的な集中力を保てる人など、
そうそういない。
(多分いないんじゃないか)

だからリライトや編集は、
偶然成功していただけのことと、
偶然失敗していただけのものが、
混在するのではないだろうか。
「部分でいいと思ったが全体では失敗だった」のは、
目立つから記憶に残りやすいが、
「部分ではまずいが、全体にとって成功だった」のは、
記憶に残りにくい。
マーフィーの法則だ。
印象的なものしか記憶に残らない。


二つを絵で比較する、
という今回の方法論は、
「絵という時間軸を伴わないもの」の力を利用する。

絵は動かない。
再生時間はゼロである。
だから、紙の上のものの二つを比較することと同じなのである。
絵は概念になる。名詞になる。
だから二つを言葉でも比較可能になる。

二枚の絵の違いを、敏感に捉えることができることは、
我々人間の性質である。
(視覚細胞や視神経にその機構があることが分かっていて、
脳を介さずに神経系統だけで判定出来る。
勿論その機構を、パラパラマンガである、映画は利用している)

間違い探しは基本的な遊びだが、
それは、たとえば命に関わる異物を見つけ出すのに、
都合良く進化してきたことの名残だろう。
(そういう意味で、異物排除と、異物を設定して安心するいじめは、
本能的なものではないかと、僕は考えている)

まあ原理はいい。
それを利用してやればいい。


バージョンAとBの差を、
流れの差ではなく、
場面(絵)の差に落とし込むように、
書いていくとよい。

そうすればするほど、どっちがいいか、
引いた目で見やすい。
絵では区別がつきにくいものならば、
(たとえば動機が変わるとか、
順番が変わるとか)、
判定には、全流れの比較でしか判断できず、
判断を誤るかもしれない。(偶然成功する可能性もある)



これは、下手したら、
ダメな観客もそのように見ているかもよ、
ということを示唆している。
この映画とこの映画、どっちが良かったか、 というとき、
どっちの絵に気に入ったものがあったかで、
言ってるだけかもしれないぜ。

だから僕は「この映画のどこが良かったの?」
とよく聞く。
「絵がよかった」という人とは、深い話をしない。
多分流れとか線の話が出来ない人なんだな、
と距離をおく。

ララランドのどこが良かったのか、と聞いて、
オープニングのミュージカルとか、
ラストの目線の交換、とか、
絵で言える所を言う人は、
その程度にしか映画を観ていないか、
内容を理解しているのだが、絵でしか表現する手段を持っていないか、
どちらかである。

どちらにせよ、
我々は、
絵を媒介にしたコミュニケーションのほうが、
時間がかからないのは、確かだ。

それは多分、記憶整理とか、概念を扱うとかいう、
脳の何かに関係しているのは確かっぽい。


それと同様の精度で、
絵にした二つを比較すると、
客観的に外に出やすいよ。
posted by おおおかとしひこ at 11:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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