裏切る、といっても、
ようし今日は観客を三回裏切ってやるぞ、
なんて思ってやるものではない。
自然に発生するものだ。
あれのあれは、実はあれだったのかーとか、
こう来ると思ったら、こっちが来たかーとか、
こっちなのか?あっちなのか?こっちかーとか、
そういうことは、
普通にあれば出てくるものだ。
それが出てきたときに、
その前を、なるべく逆に振るように、
リライトしていくのである。
慣れていれば、最初から逆にしておいて、
その場面が来たときに左にハンドルを振っといて、
急激に右に曲がるようなことが出来るだろうけれど、
大抵は、
右に曲がる場面を先に書いてから、
ちょっと戻って左に振る場面へ書き直す、
ということをやるものだ。
あるいは、全部書き終えたときに、
あの右に曲がる場面の前に左に切る場面を入れよう、
なんて全体から見て判断したりするものである。
それは全体の流れのテンポ次第、
で判断されるべきことかも知れない。
この場面の逆は要らないとか、
この逆はもう少し弱くとか強くとか、
そういうバランスを、全体から見て取り直すこともあるだろう。
そもそも裏切りがひとつもないなら、
それはストーリーだと言えるだろうか?
それはただの報告なんじゃないのか?
それは報告を馬鹿にしているかも知れない。
優秀な報告は、ストーリーテリングが巧みである。
まるで現場で体験し、
かつ俯瞰的な目線でも纏めている。
事実かフィクションかの差こそあれ、
優秀な報告と優秀なストーリーテリングは、
形式的には同じものかも知れない。
(ホームズのシリーズは、
医師ワトソンの報告、という形式のフィクションである。
○○の事件簿、とかは全部そうだね)
つまり、ダメな報告、ダメなストーリーには、
裏切りがない。
まあ、報告というものは「事実を間違いなく伝える」
のが最優先だから、最悪でも間違っていないことが肝心で、
面白い/面白くないは優先度が低いので、
ダメな報告とは間違っていたり虚偽であるわけだ。
しかしフィクションであるストーリーは、
事実が多少間違っていようが、
意図的に虚偽で覆っていようが、
面白いことが最優先である。
(メジャーなことで間違ってたりすれば、
誰でもおかしいと指摘できるが、
そうでないところで間違えていても、
まあやむなしと判断されるものである)
詰まらないストーリーとは、
変化が起こらないものだ。
ずっと同じ状態のものだ。
現状維持は、ストーリーの最大の敵だ。
あるシーンでやったことは、
次のシーンでやってはいけない。
同じ状態だからである。
あるシーンでやったことは、
次のシーンで展開しなければならない。
展開とは、
前とは別のことをやること、
前とは違うことになること、である。
順接だろうが逆接だろうが並行であろうが、
前とは別になることが展開の定義といってもいい。
その前との違いが、我々観客にとって、
変化している、動いている、という感覚をもたらす。
動くことこそ、movieである。
これは、原始的には、ダンスや暴れるという、
物理的動きで表現される。
しかし、我々が楽しむのは、状況の動きである。
つまり展開とは、
状況がどれだけ二転三転していくか、
ということなのである。
裏切りとは、つまりは状況の変化のことなのだ。
ある状態から次の状態に変わると、
その方向へ、ストーリーの矢が生じる。
次の状態は、そのストーリーの矢から予測されるものであるとき、
人は、予測が当たったことを喜ぶ。
しかし、
その先もストーリーの矢から予測されるものであったら、
人は退屈してくる。
このとき、
自分の予想が外れて、
別の状態になったら、
人は興味を持つ。
これは予測するのが難しい、なかなか手ごわいやつだぞ、と。
逆に言えば、予想しきれるものには、人は興味がないのだ。
興味を持つのは、
予想通りと予想を裏切られるのが、
半々になっているものだ。
裏切りまくってもカオス。
予想通りでも退屈。
裏切りの頻度やその大きさのバランスは、
観客の予想精度に関係する。
あなたが優秀な観客であらなばならないのは、
この観客になるためである。
あなたが楽しめる、予想と裏切りのバランスであることと、
観客の楽しめるそれが、
一致しなければならないのである。
だから、偏った人は脚本家になれない。
正確にいえば、本人は偏った人たちばかりだけれど、
「観客としての目」が偏っていてはならないわけだ。
あなたは何回裏切る?
どこで裏切る?
どこで興味をひき、どこで膝を乗り出させる?
その裏切りは、計画的でなければならない。
計画してかつ実行してかつ成功するのが、プロというものである。
2017年03月18日
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