頓降法という修辞法がある。
これは落ちと説明されやすいが、
厳密にはストーリーで使うところの落ちではない。
頓降法というのは、
ずっと真面目に来ておいて、
最後にちょっとおどけたり面白いことを言って、
緊張を緩和させて終わる方法だ。
キツイことを言って冗談で終われば、
関係性を壊さずに批判したりできる。
一番簡単なのは、
最後に「…なんて言ったりして」をつけることだ。
どんな真面目な物言いも、
これがつくと全部冗談かもよ、
とぼかして逃げることが可能になる。
「…全部冗談ですけどね」
「…というジョークでした」
「まあ、そんなの関係ねえ、ですけど」
などなど、変形は沢山ある。
簡単な手だからバリエーションも豊富だ。
もう少し手が込むと、
最後にユーモアを付け加えて、
関係性をふわりと着地させたりする。
相手を批判しておいて、
最後にそういえばああいう面白いことがあったよね、
僕らはあの時みたいな笑える関係性が理想なんだよ、
なんて最後に言えば、
批判は悪口にはならないわけである。
ずっと真面目にやっておいて、
最後にバナナの皮で滑って転んでもいい。
全部台無しで、
これは全部冗談かもよ、というのを絵でやるわけである。
これは、
前段を論理的な冷たい思考でやったときの、
コメディリリーフとして機能させるわけである。
笑いによって冷えきった思考をほぐす役割をさせるわけだ。
シリアスだけだと人は深刻になってしまうから、
コメディリリーフでバランスを取らせようというわけだ。
頓降法の逆もあるだろう。
名前はついてないようだが、
一発ジョークをかまして会場を暖めてから、
真面目な話をする、
というのはスピーチの基本だったりもする。
逆に、ずっと冗談でバカバカ笑わせ、
最後に鋭利な刃物を突きつけるように本当のことを言う、
というやり方もある。
関西の喜劇にはこういうスタイルが多いように思う。
イギリスのブラックジョークも、
基本はこういうことである。
笑いは感情であり、
論は理屈である。
人はそのバランスを無意識に取りたがる。
その気持ちを利用するわけだ。
ようやく本題。
頓降法は、落ちではない。
「色々あって、最後に笑える」という形式を、
「最後に笑う」という意味での落ちと混同しているから、
頓降法は落ちのようなものだ、
と誤解するわけだ。
逆にいうと、最後に笑えるのが落ちではない。
落ちに対する無知が、この誤解の原因である。
一番基本の起承転結を例に。
結が落ちである。
起承で話を展開させ、
転で大きく話をずらす。
結でその種明かしをして、なんだそういうことか、
と笑わせる。
この基本が笑いの起承転結構造である。
起承転は、真面目な論をしていない。
結のための、すべて前ふりである。
逆から見ると、落ちは、これまでのことをすべてまとめあげることで、
笑いになる。
落ちだけ言っても笑いにはならない。
薬屋の親父というアメリカンジョークを例に。
男が女の部屋に上がり込もうとすると、
「今日は父が仕事が休みで家にいるから無理」と言われる。
次の日、「今日は父が仕事でいないから、来てもいいわ」
と言われ、男は喜びいさんで女のマンションへ。
1Fの薬屋で、そうだコンドーム買っとかなきゃ、
とレジに出すと、薬屋のおやじが、
「兄ちゃん今日はやりまくりかい?がんばりな」と言って、
一個おまけにつけてくれる。
舞台は整った。女の部屋に入って男は確認する。
「今日はお父さんいないんだね?」
「ええ、下の薬局で働いてるの」
恐い父が、薬局でコンドームおまけしてくれたおやじだった、
というどんでん返しの笑いである。
転部はラストの女の言葉で、
結部は省略されている。
(我々の頭の中で、さっきの薬屋のおやじが、
ニヤニヤ笑う様や、男の血の気の引くリアクションなどの、
勝手に結部を再生する。
この、リアクションは想像に任せる、
あるいは、言うまでもないよね?
というパターンがアメリカンジョークには多い)
この落ちの笑いは、
「父が薬屋のおやじだった」だけでは成立しない。
今日はやりまくりとコンドームを買った、
前ふりがないと成立しない。
つまり、落ちは前ふりとセットではじめて成立する。
まんじゅう恐いの落ち、「今度はお茶が恐い」も、
まんじゅうを大量に貰う前ふりとセットであり、
そもそもマクラの、「世の中に恐いものがない男」という前ふりと、
セットで効果的なわけである。
これが、頓降法と落ちの違いだ。
落ちは、これまでのことをすべてまとめあげる。
頓降法は、笑いの一行であれば、これまでのことと関係なくてもいいのだ。
最後に笑える、というラストの点だけを見ていると同じだが、
流れという線を考えると、違う構造と機能であることが分かるだろう。
これはCM業界でも殆ど誤解されていて、
真面目な広告をやっておいて、
ラストカットだけコメディ的なことをやる、
ということを落ちだと勘違いしている。
例:真面目なことを言って、
ラストだけいい間違えて、
「なんでだよ」「違うだろ」と突っ込まれる。
この頓降法は、前のことと関係しない、
点の笑いである。
(笑いかどうかも微妙だが、爆笑問題はよくこういう使い方をされる)
落ちとは、線のものなわけだ。
この例に落ちをつけるならば、
最初から言っている真面目なことに引っかけた笑いにしなければならない。
しかし、落ちというのは前ふりが必要なので、
前ふりになっていないものからは、
強引にひねり出すしかない。
こうして最近のCMは、落ちになっていない、
頓降法で溢れているわけだ。
これは、関わる人間全ての無知から生じている。
僕は頓降法は、単なる誤魔化しでしかないと思っている。
コミュニケーションの一手段でしかないと。
だから、そういうものに出会うと、結構怒る。
怒られたほうはわかんねえだろうな。
で、説明のためにこの記事にまとめてみたわけだ。
なんてね。怒ってないよ。冗談だよ。
2017年03月19日
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