2017年03月20日

再び、構成

構成については、
どれだけ考えても考えすぎるということはない。

構成とは、順番のことではない。
順番と、分量の比率、両方のことである。


序盤、中盤、終盤という構成だとしても、
それらの比率が、
1:2:1(二時間映画に最適)、
1:1:1(中編に最適)、
2:2:1(短編に最適)、
という黄金バランスか、
たとえば5:1:3(はじまりが長く、すぐ決着がつき、
しかもだらだら長い)みたいな歪バランスかで、
構成としては違う、と考えるべきだ。

中盤の構成が、
同じ四天王(4人を次々に倒していく)だったとしても、
それぞれにかける時間が、
1:1:1:1なのか、
4:3:2:1なのか、
4:1:1:5なのかで、
話の印象や中身は、まるで違ったものになるだろう。

脚本というのは、切ることや加えること
(加えるとは表現せず、膨らませるという言い方が普通かな)
が、とにかく多い。
それは、話の順番が同じだとしても、
その描写や重みの大小で、
話が別物になってしまうからである。


で、ここからが難しいのだが、
長いとか短いとかに関する指標というのが、
理論的にはないような気がしていて、
それは、感覚的なような気がする。
ということは、各自で感覚が違ったり、
これまで見てきたものだけで養成された感覚があり、
各自の出自で異なる可能性が高いということだ。

ここは不必要に長いからカットしようとか、
ここはもっとじっくり見たいとかが、
人によって異なる感覚である、
ということは、
すなわち、これは編集室で揉める最大の原因だということだ。
(だからディレクターズカットみたいなことが、
世の中にあるわけである。
ハリウッド映画では、最終編集権がプロデューサーにある)


構成を順番としてしか考えないと、こういう感覚のズレに気づかない。
これは言うべきでこれは言うべきでない、
という判断も、それは構成なのである。
だって長さ(中身の質に影響する)に関わることだからである。

しかも、厄介なのは、
ここ長いとか短いとかいう感覚は、
全体を基準にしていなくて、
その場で見た感想でしかないことが多いことだ。
全体にとって、ここは長すぎる、短すぎる、
ということを考えることが、構成を練るということである。

順番を決めることだけが構成だ、
とうっかり考えていると、
これはどれだけの長さで書けばよいのか、
分からなくなっていく。

で、(全体から見たら)ダラダラと長く書いてしまい、
その先を見失ったり、
短く書きすぎてしまって、あとでそれを使うほどには十分に描けてなかったりするわけだ。


あることを書き始めたら、
想定よりも話が転がってしまい、
予定より長くなったなんてことはざらにある。
そのとき、当初の構成計画でやってはだめだ。
すでに構成が変わったのだから、
その構成から着地するように、
下手したら話自体も変容を迫られるのである。

分かりやすい例は、漫画「ボーイズオンザラン」で、
当初ボクシングものとして計画されたストーリー
(だから主人公とハナは第一話ですれ違っている)
が、
サラリーマン編が面白くなってきてしまって、
ジムに入る前までが滅茶苦茶膨らんでしまったものである。

ドカベンでいうところの柔道編
(知らない人向けに書いておくと、
野球漫画の金字塔ドカベンの、最初5巻ぐらいは、
柔道部を主体にした柔道漫画である。
それが野球に転向して活躍する、という話なのだ)
のところが異様に膨らんでしまい、
野球編がショボショボになった、
この漫画は失敗作であると僕は考えている。

だってボクシングはじめてから、全然面白くなかったもの。
青山くんのその後やちひろのその後の方が見たくて、
ハナとかどうでも良かったもの。
サラリーマンアッパーの親父も、トレーナーになってほしかったし。

長さで言えば、
サラリーマン編:ボクシング編が、
1:10くらいで構想されてはじまった話が、
10:3ぐらいになってしまった感じ。
つまり、ボーイズオンザランは、典型的なしりつぼみの失敗作である。

「ろくでなしブルース」も、
ボクシングがやりたかったのかヤンキーがやりたかったのか不明だが、
明らかにヤンキー漫画としての分量が圧倒的だ。

僕が漫画を例に出すのは、
一本で完成させる映画脚本とちがい、
作りながら完成していく連載スタイルの漫画の方が、
欠点が露呈したら取り返せないからである。

ボーイズオンザランは、取り返せなかった。
ろくでなしブルースは、それでもボクシング編をスタートさせなかった英断があった。
おそらくはその違いだ。

だから、連載ってこわい。
当初の計画通りにやるのか、
計画をそれたらそのあとアドリブでやるのか、
腹を決めなきゃならない。
アドリブでやると決められればいいけど、
我々脚本家は、計画こそ全てだからね。


話がそれたかな。

分量は、実は構成の、なかなか気づかないクリティカルな要素だ。


プロットを組むとき、
話の順番を書くことは徹底して考えても、
話の分量を徹底して考えることは少ないのではないか。

これを○分(○ページ)でやろう、
あるいは△分がいいか、
なんてあんまり考えないよね。

○分、△分、×分でこのブロックを書き、
計◎分に書く、
何て言う風にプロットを考えるとどうなるか。

この内容を○分で書くと、
濃すぎるとか薄すぎるとかが、分かるようになるのである。
濃いならば、○を増やすか、内容を削るかだ。
薄いならば、○を減らすか、内容を増やすかだ。
均等に濃さを調整するのが目的ではないが、
バランスの悪い濃さが連続すると、
我々はペースを見失ってしまうものである。


プロットを書くときの行数を、分量と勘違いしてはいけない。
あらすじの文章量と、内容の尺は一致しない前提でいたほうがよい。
大抵は一幕が説明のために長くなってしまうことぐらい、
経験ずみであろう。

ということで、
プロットを書くときは、
文章をブロック単位で書いておき、
その横に○分、という数字も併記することをオススメする。

文章を練るだけでなく、○の構成を練ることも、
事前にしておくべきだと僕は思う。


今考えているアイデアをプロット化すると、
中盤が薄いことが、案の定明らかになった。
序盤がなげえなあ、とかも、文章量ではなく○のバランスで判断できる。
とすると、コンパクトに書くためには、
設定を減らさなければならないな、
などと、俯瞰で見れるようになるわけだ。
posted by おおおかとしひこ at 14:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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