2017年03月22日

初めて書いて、それっきりでやめちゃう人

僕はそうじゃなかった側の人なんだけど、
多くの人は、
ひいひい言いながら一本書いて、
あまり面白くないと言われて、
大変傷ついて、二度と書かない。

そういう人に僕は言いたい。
「初めて炊いたご飯が失敗しただけじゃないか。
料理は何回も作りながらうまくなるのだよ」と。


しかしながら、
料理と脚本の違うところは、
「作るのに必要な労力」である。

足腰や手が疲れる、というわけではない
(腱鞘炎や腰痛や目が悪くなる副作用にかかる人もいるが) 。
どちらかというと、
脳や心の領域の疲れだ。

疲れるというより、
脳や心に貯めていた部分を、
それを書いたことで放出してしまい、
「また書きなよ、と言われても、何も残っていない」
というあたりがリアルな所ではないだろうか。

それは、
ご飯一人分炊くのに、
米の分量を間違えて、
米俵分使ってしまった、
ということにすぎないのである。


米はまた買えばいい。
心や脳は?
補充すればいいんだよ。
また沢山の映画や、漫画や、小説や、芝居を見たり、
色んな経験を積むことで。

沢山書く人は、
湖のように沢山の知識を溜め込んでいて、
それが少しずつ湧水のように出てきているイメージがある。
一回で湖の水を使いきった自分では、
とても次を書くなんて、と、
諦めてしまうのはわかる。
でもそれは、イメージが間違っている。
引き出しという言葉も、溜めておくイメージからだろう。
それはちょっと違うんだ。

書くという行為は、
芋虫みたいな感じだ。
何かを食べて、消化して、出たものが作品だ。
いや、これでは作品がうんこになってしまう。
コーヒー豆とフィルターにたとえよう。
作品はコーヒーで、豆カスがうんこだ。

あなたは、もう豆がないのです、と言っている状態だ。
うんこを出して、フィルターを替えて、
新しく豆をフィルターにかければいいだけのことなのだ。

芋虫にたとえれば、別の葉っぱを見つけて、食べればいいだけのことなのだ。


私の中を通過するなにか。
それを作品に凝縮していくのである。

私の何かを作品に込めたら、
私は目減りしてしまう。
全てをぶちこんだあとの私は空っぽで、
もう私じゃないわけだ。
だからそこに別の何かをインストールすると、
別の私になってしまうではないか。
そう考えるから、たぶん次を書くなんて無理だと思うのだろう。

でもさ。
普段お喋りするだけで、私がなくなってしまうわけじゃないだろう?
創作を、特別なものだと考えすぎなのさ。
普段のお喋りと同じで、
通過する話題や興味を、少し濾して他人と共有する感じなのさ。

私を作品中に放出しすぎたら、
私でなくなってしまう。
それは、私を放出しすぎたのである。
米俵を炊いてしまったのだよ。


あるストーリーを作るのに、
私の何かを放出しなくてもいい。

それは、
「材料を仕入れて、私のフィルターを濾してコーヒーを出し、
ゴミを捨てて、次の材料を仕入れる」
というループにはならない。


勿論、私の何かを放出しなければ、作品は魂を持たない。
流れ作業では作品は適当だろうし。

だから、作品によって、
「私の放出具合をコントロールする」という技能が、
創作には必要なのである。

仕入れた材料と、私の何かを放出して私自身を消費する、
そのバランスを、コントロール出来るようにならなければならないのだ。

たぶんこれは、
どんな初心者も聞いたことない話だろうから、
書いてみた。


部活を始めて、初試合で燃え尽きて辞めてしまう人がいる。
たとえば野球部だとしよう。
辞める人は大体同じことを言う。
続けていくほど野球が好きじゃなかった、
結果を出す前の過程のほうが好きだった、
自分より野球が好きで才能のある人を見て、自分には無理だと思った、
大体そのへんだろう。

それはそうじゃないんだ。
初試合で、溜めたものを出しすぎちゃったんだ。

自分を出しすぎて、自分がなくなっちゃったんだ。
だってそれだけ必死だったからなんだ。
必死になるほど、野球がその時は好きで夢中になってたからだ。

それは、自分の放出のコントロールの仕方を知らなかっただけなのだ。
そこまで好きを放出しなかったら、
また野球を続けて、うまくなったり下手なりに頑張ったりして、
おじさんになっても草野球をしたり、
次の野球少年を育てていたかも知れないのに。


ストーリー創作は、
脳と心だけを使うから、
余計これが起こりやすいのだと、
僕は考えている。

よく知らない人は、
「一回の挫折でやめちゃうなんてさ、またやればいいじゃん」
なんて適当なことを言う。
書いて挫折した人の心神喪失具合なんて、
想像すら出来ずにね。

だから僕は言うんだ。

芋虫みたいな感じだぜと。
うんこをするのに、内蔵全部出しちゃうから二度と出来なくなるのさ。
食べて、消化して、うんこして。
次の葉っぱを見つけて、
食べて、消化して、うんこして。
そんな感じだよと。

博覧強記の人は、先に湖を溜めて、少しずつ湧水を出してるんじゃないのさ。
出した分は補充してるんだよと。


創作を続けていると、
コーヒー豆のカスやフィルターゴミのようなものが、
地層のように溜まっていくのを実感するだろう。
そういう毎日が、創作をし続けるということなんだ。


挫折した人へ。
君は、私を放出しすぎただけなんだ。
それだけ好きだったのかも知れないね。
それだけ好きなのに、うまく書けなかったことに、
才能がないのだと、ひどく傷ついたのだろうね。

でもそれは、
ご飯一杯炊くのに失敗した程度の失敗さ。
米俵使っちゃって、放心状態になってるだけさ。

どれだけ自分を出しすぎないか。
お喋りのように無責任な創作もある。
その配分の仕方を、
誰も教えてくれなかっただけだ。
教えることすら、難しい。
作品によって、そのコントロールは毎回違うんだから。

もしまだやり直せるかも、と思うなら、
自分の放出をコントロールしながらやることに、
注意しながらやればいいんじゃないかな。

それは、三人称形である強みなんだ。
所詮他人の話だぜ?
あなたの話じゃないんだから、
無責任に作っちゃっていいんだよ。
盛っちゃっていいのさ。
他人の面白げな世界やストーリーを適当に作って、
一行だけあなたの本音を書けばいいのさ。

私たちは、真実を書くのが仕事ではなく、
嘘を書くのが仕事の職業だよ?
嘘に真実を入れるのは、フィクションじゃないんだよ。

私たちは、全部嘘で固めた、全体としては真実のものを、
書くのが仕事なのさ。
だから、その作品に自分の放出をするのは、
そもそも方法論として間違ってるんだよ。



真面目な人ほど、私を全部込めて、放出してしまうのだろう。
燃え尽き症候群って言うんだっけ。
自分を消費してはいけない。
それをしたらなくなっちゃう。
自分を消費しないで作品を作っていく、
ということを学べばいいだけなのに。

作品を書いて狂っていく、
鬱になる、
その他心の病を生じる、
そんなのはナンセンスだ。
心のコントロールを知らない、素人なんだよ。

プロは、仕入れた材料と自分の放出のバランスをコントロールしながら、
日々仕入れたり放出したりして、
プラマイを調整しているんだ。
だから毎日やっていける。
それじゃ魂がこもらない?
そんなことはない。
それでも魂がこもるほど、ストーリーが好きだからね。
魂がこもるような、技術でこめていくようなものかもね。


それでも、若いうちは、
何回かバーンアウトしてしまうかも知れない。
ああ、私は私を放出しすぎたのだな、と、自覚すること。
私の放出をせずに作品を作る方法が世の中にあることに、気づくこと。
たとえば鬼束ちひろは、放出しすぎてしまったように思える。
心をコントロールする技術を学ぶ前に、心が壊れてしまった感じがする。

芸術とは、人の心の魔性である。
悪魔との付き合い方を知らないと壊されるだけだ。



挫折してしまった人へ。
また書けばいいじゃない。
今度はうまくやればいいだけだ。
短いやつを沢山書いて、失敗経験を沢山積む、
というのが僕のオススメの方法だ。

短いやつなら、自分の放出をし過ぎなくてもすむ。
そのループを沢山やることで、
コントロールの仕方を学べるだろう。

芋虫がうんこする日常のように、
ご飯を毎日炊くように、
創作を日常にするんだよ。
そしたら、だんだん上手くなっていく。

上手くなってきたころ、長いやつを書いてみればいい。
長いやつも同じで、私を放出しすぎたらアウトだよ。
posted by おおおかとしひこ at 11:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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