2017年03月23日

「そう思ったでしょ。ところが」とネタバレ

ストーリーの本質は、
「そう思ったでしょ。ところが」に凝縮できる。
前記事でそう議論した。

これとネタバレとの関係を考えてみる。
僕は、「ところが」の回数で、ネタバレ度合いを決めればいいと考えている。


タイのオカマの例をもう一度考えよう。
最初のバージョンでは「ところが」は一回であった。
AところがBだった。

このとき、Bを先にばらすのはネタバレである。
「タイで逆ナンされちゃってさあ」
「それ、連れ込んだらオカマだったって落ちだろ?」
「先に言うんじゃねえよ、台無しだろ!」
の世界である。

次のバージョンでは、
AところがBところがCであった。

Bをばらすのはネタバレだろうか?

「こないだタイで逆ナンされちゃってさあ」
「それ、連れ込んだらオカマだったんだろ?」
「そうそう。で、この話には続きがあってさ」
「なになに?」
「まいっか、と思ってやっちゃったんだよね」
「やったのかよ!」

半分ネタバレだが、
全部ネタバレではない。
ネタバレではないとも言えるし、全バラシではないとも言える。
僕はこれぐらいなら、ネタバレと言わないことにしている。

なぜなら本当に大事な落ちはCだからである。

さらに。
三つ目のバージョンは、
AところがBところがCところがDと、
四回ひっくり返したのであった。

「タイで逆ナンされて連れ込んだんだけど、
でもオカマで、でもやっちゃったんだ」
「まじか!」
「このあと、衝撃の展開が!」

は、ネタバレではない。
大落ちのDを隠しているからである。

しかし、ほとんどを話してしまっているので、
概ねネタバレ、と言われても過言ではない。


ネタバレとはなんだろう。
つまり、ネタとはなんだろう。
それは、「ところが」の部分のことではないのか?

AところがBの構造の場合、
Aをばらすのはネタバレではない。
Bをばらすのは、1/1ネタバレである。

AところがBところがCの構造の場合、
Aをばらすのはネタバレではない。
Bをばらすのは、1/2ネタバレである。
Cもばらすのは、2/2ネタバレである。

AところがBところがCところがDの構造の場合、
Aをばらすのはネタバレではない。
Bをばらすのは、1/3ネタバレである。
Cをばらすのは、2/3ネタバレである。
Dをばらすのは、3/3ネタバレである。

我々の感覚として、
半分以上ばらされたら、
ネタバレだと考えてしまうだろう。

「タイで逆ナンされちゃってさあ」は、
導入部分であるから、ネタバレではない。
さわりの部分である。
ここは自由にネタバレしてよい部分だ。
このとき、三つ目のバージョンだけが、
「連れ込んだらオカマだった」と、
ネタバレしても、後半をシールド出来る、というわけである。
だってそのあと、二回も「ところが」を隠しているわけだからだ。



映画には、ラストで一番大きな「ところが」を隠し持っているものがある。
どんでん返し映画と呼ばれるものである。
どんでん返しが最後にあるということすら、
これは隠されるべきで、
そうでなければどんでん返しの意味がない。

さてようやく本題だ。

これらのことを考えれば、
予告やパッケージにおいては、
導入のネタバレはいい。
そして、前半部分の「ところが」は、
「この話は面白そうだぞ」と思わせるのに、
ネタバレしていい。
後半部分の大ネタを隠して、かつ、
それだけで面白そうに客を引くべきだ。


以下、具体例で議論したいので、
「猿の惑星」「シックスセンス」「いけちゃんとぼく」
を最後まで見ていない人はここでおしまい。



(ちょっと改行あけときますよ)









さて、古典的どんでん返しの、猿の惑星。
大落ち、
「漂着したのが猿の惑星だと思ったら、ここは未来の地球だった」
ということ隠すために、
この映画は巧妙なテクニックを用いている。
それは、早めに大きめの「ところが」を作ることでだ。

それは、「猿が支配する星に漂着した」と思わせておいて、
「ところが」、
「猿が人を奴隷にしている、価値観が逆転した星だった」
というネタである。

この一発目の大きな「ところが」は、
「なるほど、知性を分けるのは何か、
逆転の構造から批判しようとしているのだな」
と我々の知性を働かせ、
この映画のストーリーに入り込む、最大のきっかけとなる。
(調べていないが、おそらくここは第一ターニングポイント付近であろう)

この逆転の構造で楽しんでいけるからこそ、
「猿にも話せるやつがいる」などの「ところが」を、
楽しめるようになっている。
こうしてすっかり、いくつかの「ところが」を楽しんだら、
不意に最大の「ところが」、どんでん返しがやってくる仕掛けになっているわけだ。


同じ「ところが」の構造が、
シックスセンスにもある。

刑事が大事件に巻き込まれ、爆死。
ところが、生き返ることができた。
新たな依頼は、少年。
ところがこの少年、幽霊が見えるのだ。

と、巧みに「そう思ったでしょ。ところが」
を振り撒き、大落ちを隠すように仕向けていることに、
気づかれたい。

大落ち、
「主人公は実は最初に死んでいて、
かつ幽霊が見えるこの少年にしか見えていなかった」
という大どんでん返しの、
巧みな伏線になっていることが、
この脚本の素晴らしい構造だ。

ただ、意外に意外に意外に、
話を曲げていって、違う方向に転がせばいい、
というものではない。
それはそれで楽しめるのだが、
それはストーリーの形をしていなければならない。
それはすなわち、
冒頭で振ったことが、落ちに結びつく、ということである。

大どんでん返しをするためには、
冒頭で落ちの前ふりをしながら、
かつ、大どんでん返しがあることを悟られないように、
巧みに「そう思ったでしょ。ところが」を繰り返して、
「別方向」に夢中にさせなければいけないのである。

大どんでん返しが難しく、なかなか決まらないのは、
これらが、読まれてしまうように伏線がばれるか、
曖昧な前ふりだと記憶してないからかも知れない。

このような見事などんでん返しは、
他に「ソウ」「ゲーム」「アンブレイカブル」などがある。
研究されたい。
(見てないなら、まずは楽しむのが先決だ!)



さて。
映画「いけちゃんとぼく」は、
角川映画サイドの、二つの失敗によって、
大成功映画にならなかった例だ。

ひとつには、
シナリオにあった「苛められるヨシオを、
いけちゃんが助けようとするが、他の子供たちをすり抜け、
触れられもせず、気づかれもしない」
という重要なシーンをカットしたことだ。
僕は最後まで抵抗したが、
CGの予算がないと切られてしまった部分だ。
これによって、最初の野原のいじめシーンが、
「ただのいじめ」になってしまい、いけちゃん不在で進んでしまうことになった。

「助けてくれると思うでしょ。ところが、
他の人には見えてないし、干渉もできない」
という重大な、ファースト「ところが」を見失ってしまったのである。

二つ目の大きな「ところが」は、二幕前半の「いけちゃんは女」
というところだ。
逆に言うと、45分「ところが」がない。
これが、映画版「いけちゃんとぼく」の前半部分が退屈な、
全ての原因である。

これは僕の意向ではなく、
CG費がないからといって、
ストーリー構造に手をかけた、プロデューサーの責任であると、
僕は考えている。
(最後まで監督や脚本家が責任を取れない体制である。
最終編集権はプロデューサーだからだ)
金がないのは首がないのと同じだ。
貧すれば鈍するのである。


二つ目の角川映画の失敗は、
いけちゃんの正体を、予告編とポスターでネタバレしたことである。
正体のどんでん返しこそ、この物語の肝だというのに、
その大ネタをばらしてしまうのは、
映画とはなんであるかを、知らない無知の愚行と言っても過言ではない。

抗議する僕に「余命三ヶ月の花嫁はタイトルでネタバレしているから、
問題ない」としれっと言ったバカ女を、
僕は一生許さないだろう。

そのせいで僕は「余命三ヶ月の花嫁」をまだ見てないのだ。
タイトルを見るだけでムカムカするので。


ネタバレ、という言葉には、
「何をネタバレしているか」という知性が抜け落ちているので、
僕はバカな言葉だと考えている。

余命三ヶ月の花嫁がネタバレしているのは、
初期設定であり、「ところが」の行き着く先ではない。
むしろ前半部分をばらしているだけであり、
導入部分のさわりの公開にすぎない。
いけちゃんの正体をばらすのは、
ミステリーの犯人を言ってしまうようなもので、
大ラスのネタバレだ。

僕が怒っているのはもうひとつあって、
「ヒットしているからと言って、正しいとは限らない」
ということだ。
簡単に言えば、守銭奴になるべきではない、
ということである。

角川映画はそういう集まりかどうかは知らないが、
少なくともメインプロデューサーと宣伝部のバカ女の二人は、
一生許すことのないバカである。


この話になると冷静になれない。
僕はそのために、ずっと、脚本と映画の関係について、
考えているようなものだ。


ところで、
「猿の惑星」は、パッケージで壮大な大ラスのネタバレをしている。
宣伝部は腹を切れ。
まあ古典中の古典だからいいんだけどさ。

いけちゃんとぼくのDVDパッケージは、
良心的なデザイナーによって、ネタバレを回避している。
しかし、ヒキが弱いのはやむなしだ。
だって、最初の「ところが」が欠けているんですもの。


いいネタバレとは何か。

後半部分の大事な「ところが」を取っておきながら、
頭の方の「ところが」を使って、
ストーリーの中に引き込むことを言う。

逆に、あなたは、
そのようないい「ところが」がある、
ストーリーを作るべきなのだ。
posted by おおおかとしひこ at 13:17| Comment(4) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
前回の続きを楽しく読ませていただきました。
ただ一箇所だけ疑問が残りました。

>>導入部分であるから、ネタバレではない。
>>さわりの部分である。

さわりは、冒頭という意味ではありません。物語の芯をさします。
この講座のさわりという言葉が、『タイで逆ナン』という物語の芯を意味して使っているのか、あるいは単なる誤用なのかが、いまいち掴みづらかったです。
Posted by パナマドン at 2017年03月23日 23:43
パナマドン様コメントありがとうございます。

「話のさわり」は、いまや、
元義(本質の意味。義太夫の言葉から)で使われておらず、
誤用(話しはじめの部分)で使われています。
少なくとも僕のいる業界では、
元義で使っている人は一人もいませんねえ。
ほとんど「ツカミ」と同義で、
ツカミほど強力なものがないときに、さわり、と言うことがほとんどです。


「さわりだけでも聞かせてよ」は、
一番いいところを聞かせてくれ、
の意味ではもうない使い方と考えます。

ほかにも「おもむろ」「敷居が高い」は、
誤用のほうが、僕は最早支配的だと考えています。
Posted by おおおかとしひこ at 2017年03月24日 00:00
なるほど、了解しました。
重箱の隅をつつくような指摘をすみませんでした。
Posted by パナマドン at 2017年03月24日 13:29
お気になさらず。

「誤用」とされるこれらの言葉は、
(的を射るのか得るのか、なども)
その語源となるものを知らない人が増えてきたことと、
関係あるような気がしています。
義太夫なんて生で聞いたことないしなあ。
接触関係、身体関係の言葉は衰退しつつある、
なんて言語学者の説も聞いたことあります。

あと、文字を離れて、口で言いやすいほうに変質しやすい気がします。
今なら、「タイプしやすい/フリックしやすい」ことに関係あるかも。
Posted by おおおかとしひこ at 2017年03月24日 14:01
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