ストーリーの本質は、
「そう思ったでしょ。ところが」に凝縮できる。
前記事でそう議論した。
これとネタバレとの関係を考えてみる。
僕は、「ところが」の回数で、ネタバレ度合いを決めればいいと考えている。
タイのオカマの例をもう一度考えよう。
最初のバージョンでは「ところが」は一回であった。
AところがBだった。
このとき、Bを先にばらすのはネタバレである。
「タイで逆ナンされちゃってさあ」
「それ、連れ込んだらオカマだったって落ちだろ?」
「先に言うんじゃねえよ、台無しだろ!」
の世界である。
次のバージョンでは、
AところがBところがCであった。
Bをばらすのはネタバレだろうか?
「こないだタイで逆ナンされちゃってさあ」
「それ、連れ込んだらオカマだったんだろ?」
「そうそう。で、この話には続きがあってさ」
「なになに?」
「まいっか、と思ってやっちゃったんだよね」
「やったのかよ!」
半分ネタバレだが、
全部ネタバレではない。
ネタバレではないとも言えるし、全バラシではないとも言える。
僕はこれぐらいなら、ネタバレと言わないことにしている。
なぜなら本当に大事な落ちはCだからである。
さらに。
三つ目のバージョンは、
AところがBところがCところがDと、
四回ひっくり返したのであった。
「タイで逆ナンされて連れ込んだんだけど、
でもオカマで、でもやっちゃったんだ」
「まじか!」
「このあと、衝撃の展開が!」
は、ネタバレではない。
大落ちのDを隠しているからである。
しかし、ほとんどを話してしまっているので、
概ねネタバレ、と言われても過言ではない。
ネタバレとはなんだろう。
つまり、ネタとはなんだろう。
それは、「ところが」の部分のことではないのか?
AところがBの構造の場合、
Aをばらすのはネタバレではない。
Bをばらすのは、1/1ネタバレである。
AところがBところがCの構造の場合、
Aをばらすのはネタバレではない。
Bをばらすのは、1/2ネタバレである。
Cもばらすのは、2/2ネタバレである。
AところがBところがCところがDの構造の場合、
Aをばらすのはネタバレではない。
Bをばらすのは、1/3ネタバレである。
Cをばらすのは、2/3ネタバレである。
Dをばらすのは、3/3ネタバレである。
我々の感覚として、
半分以上ばらされたら、
ネタバレだと考えてしまうだろう。
「タイで逆ナンされちゃってさあ」は、
導入部分であるから、ネタバレではない。
さわりの部分である。
ここは自由にネタバレしてよい部分だ。
このとき、三つ目のバージョンだけが、
「連れ込んだらオカマだった」と、
ネタバレしても、後半をシールド出来る、というわけである。
だってそのあと、二回も「ところが」を隠しているわけだからだ。
映画には、ラストで一番大きな「ところが」を隠し持っているものがある。
どんでん返し映画と呼ばれるものである。
どんでん返しが最後にあるということすら、
これは隠されるべきで、
そうでなければどんでん返しの意味がない。
さてようやく本題だ。
これらのことを考えれば、
予告やパッケージにおいては、
導入のネタバレはいい。
そして、前半部分の「ところが」は、
「この話は面白そうだぞ」と思わせるのに、
ネタバレしていい。
後半部分の大ネタを隠して、かつ、
それだけで面白そうに客を引くべきだ。
以下、具体例で議論したいので、
「猿の惑星」「シックスセンス」「いけちゃんとぼく」
を最後まで見ていない人はここでおしまい。
(ちょっと改行あけときますよ)
さて、古典的どんでん返しの、猿の惑星。
大落ち、
「漂着したのが猿の惑星だと思ったら、ここは未来の地球だった」
ということ隠すために、
この映画は巧妙なテクニックを用いている。
それは、早めに大きめの「ところが」を作ることでだ。
それは、「猿が支配する星に漂着した」と思わせておいて、
「ところが」、
「猿が人を奴隷にしている、価値観が逆転した星だった」
というネタである。
この一発目の大きな「ところが」は、
「なるほど、知性を分けるのは何か、
逆転の構造から批判しようとしているのだな」
と我々の知性を働かせ、
この映画のストーリーに入り込む、最大のきっかけとなる。
(調べていないが、おそらくここは第一ターニングポイント付近であろう)
この逆転の構造で楽しんでいけるからこそ、
「猿にも話せるやつがいる」などの「ところが」を、
楽しめるようになっている。
こうしてすっかり、いくつかの「ところが」を楽しんだら、
不意に最大の「ところが」、どんでん返しがやってくる仕掛けになっているわけだ。
同じ「ところが」の構造が、
シックスセンスにもある。
刑事が大事件に巻き込まれ、爆死。
ところが、生き返ることができた。
新たな依頼は、少年。
ところがこの少年、幽霊が見えるのだ。
と、巧みに「そう思ったでしょ。ところが」
を振り撒き、大落ちを隠すように仕向けていることに、
気づかれたい。
大落ち、
「主人公は実は最初に死んでいて、
かつ幽霊が見えるこの少年にしか見えていなかった」
という大どんでん返しの、
巧みな伏線になっていることが、
この脚本の素晴らしい構造だ。
ただ、意外に意外に意外に、
話を曲げていって、違う方向に転がせばいい、
というものではない。
それはそれで楽しめるのだが、
それはストーリーの形をしていなければならない。
それはすなわち、
冒頭で振ったことが、落ちに結びつく、ということである。
大どんでん返しをするためには、
冒頭で落ちの前ふりをしながら、
かつ、大どんでん返しがあることを悟られないように、
巧みに「そう思ったでしょ。ところが」を繰り返して、
「別方向」に夢中にさせなければいけないのである。
大どんでん返しが難しく、なかなか決まらないのは、
これらが、読まれてしまうように伏線がばれるか、
曖昧な前ふりだと記憶してないからかも知れない。
このような見事などんでん返しは、
他に「ソウ」「ゲーム」「アンブレイカブル」などがある。
研究されたい。
(見てないなら、まずは楽しむのが先決だ!)
さて。
映画「いけちゃんとぼく」は、
角川映画サイドの、二つの失敗によって、
大成功映画にならなかった例だ。
ひとつには、
シナリオにあった「苛められるヨシオを、
いけちゃんが助けようとするが、他の子供たちをすり抜け、
触れられもせず、気づかれもしない」
という重要なシーンをカットしたことだ。
僕は最後まで抵抗したが、
CGの予算がないと切られてしまった部分だ。
これによって、最初の野原のいじめシーンが、
「ただのいじめ」になってしまい、いけちゃん不在で進んでしまうことになった。
「助けてくれると思うでしょ。ところが、
他の人には見えてないし、干渉もできない」
という重大な、ファースト「ところが」を見失ってしまったのである。
二つ目の大きな「ところが」は、二幕前半の「いけちゃんは女」
というところだ。
逆に言うと、45分「ところが」がない。
これが、映画版「いけちゃんとぼく」の前半部分が退屈な、
全ての原因である。
これは僕の意向ではなく、
CG費がないからといって、
ストーリー構造に手をかけた、プロデューサーの責任であると、
僕は考えている。
(最後まで監督や脚本家が責任を取れない体制である。
最終編集権はプロデューサーだからだ)
金がないのは首がないのと同じだ。
貧すれば鈍するのである。
二つ目の角川映画の失敗は、
いけちゃんの正体を、予告編とポスターでネタバレしたことである。
正体のどんでん返しこそ、この物語の肝だというのに、
その大ネタをばらしてしまうのは、
映画とはなんであるかを、知らない無知の愚行と言っても過言ではない。
抗議する僕に「余命三ヶ月の花嫁はタイトルでネタバレしているから、
問題ない」としれっと言ったバカ女を、
僕は一生許さないだろう。
そのせいで僕は「余命三ヶ月の花嫁」をまだ見てないのだ。
タイトルを見るだけでムカムカするので。
ネタバレ、という言葉には、
「何をネタバレしているか」という知性が抜け落ちているので、
僕はバカな言葉だと考えている。
余命三ヶ月の花嫁がネタバレしているのは、
初期設定であり、「ところが」の行き着く先ではない。
むしろ前半部分をばらしているだけであり、
導入部分のさわりの公開にすぎない。
いけちゃんの正体をばらすのは、
ミステリーの犯人を言ってしまうようなもので、
大ラスのネタバレだ。
僕が怒っているのはもうひとつあって、
「ヒットしているからと言って、正しいとは限らない」
ということだ。
簡単に言えば、守銭奴になるべきではない、
ということである。
角川映画はそういう集まりかどうかは知らないが、
少なくともメインプロデューサーと宣伝部のバカ女の二人は、
一生許すことのないバカである。
この話になると冷静になれない。
僕はそのために、ずっと、脚本と映画の関係について、
考えているようなものだ。
ところで、
「猿の惑星」は、パッケージで壮大な大ラスのネタバレをしている。
宣伝部は腹を切れ。
まあ古典中の古典だからいいんだけどさ。
いけちゃんとぼくのDVDパッケージは、
良心的なデザイナーによって、ネタバレを回避している。
しかし、ヒキが弱いのはやむなしだ。
だって、最初の「ところが」が欠けているんですもの。
いいネタバレとは何か。
後半部分の大事な「ところが」を取っておきながら、
頭の方の「ところが」を使って、
ストーリーの中に引き込むことを言う。
逆に、あなたは、
そのようないい「ところが」がある、
ストーリーを作るべきなのだ。
2017年03月23日
この記事へのトラックバック
ただ一箇所だけ疑問が残りました。
>>導入部分であるから、ネタバレではない。
>>さわりの部分である。
さわりは、冒頭という意味ではありません。物語の芯をさします。
この講座のさわりという言葉が、『タイで逆ナン』という物語の芯を意味して使っているのか、あるいは単なる誤用なのかが、いまいち掴みづらかったです。
「話のさわり」は、いまや、
元義(本質の意味。義太夫の言葉から)で使われておらず、
誤用(話しはじめの部分)で使われています。
少なくとも僕のいる業界では、
元義で使っている人は一人もいませんねえ。
ほとんど「ツカミ」と同義で、
ツカミほど強力なものがないときに、さわり、と言うことがほとんどです。
「さわりだけでも聞かせてよ」は、
一番いいところを聞かせてくれ、
の意味ではもうない使い方と考えます。
ほかにも「おもむろ」「敷居が高い」は、
誤用のほうが、僕は最早支配的だと考えています。
重箱の隅をつつくような指摘をすみませんでした。
「誤用」とされるこれらの言葉は、
(的を射るのか得るのか、なども)
その語源となるものを知らない人が増えてきたことと、
関係あるような気がしています。
義太夫なんて生で聞いたことないしなあ。
接触関係、身体関係の言葉は衰退しつつある、
なんて言語学者の説も聞いたことあります。
あと、文字を離れて、口で言いやすいほうに変質しやすい気がします。
今なら、「タイプしやすい/フリックしやすい」ことに関係あるかも。